Ⅰ.初期

Ⅰ.初期

シャーロック・ホームズ年譜

(ローマ数字は月を示す)

 「ええと日付は?」――シャーロック・ホームズ

W・S・ベアリング=グールド『シャーロック・ホームズ ガス燈に浮かぶその生涯』河出文庫

Ⅰ.初期
1844.Ⅳサイガー・ホームズが戦傷によりイギリスに帰国。
 Ⅴ.7.(火)サイガー・ホームズはエクスターのシッドウェル教会でロンドンのバークスレイ・スクェアに住むエドワード・シェリンフォード卿の三女ヴァイオレット・シェリンフォードと結婚。
1845.ⅩⅠ.30.(日)シェリンフォード・ホームズ誕生。
1846.Ⅹ.31.(土)ジェイムズ・モリアーティが、イギリスの西部の某町で誕生。2人の兄弟がいたが妙なことに2人ともジェイムズという名であった。
1847.Ⅱ.12.(金)マイクロフト・ホームズ誕生
1852.Ⅷ.7.(土)ジョン・ヘイミシュ・ワトスン誕生。父ヘンリー・ワトスンはハンプシア出身。母は婚前にはエラ・マッケンジーという名で、東スコットランドの生まれであった。ヘンリー・ワトスン・ジュニアという兄がいたが、1888年に酒の飲み過ぎで死んだ。ワトスン家は快適な環境にあった。ジョンがまだ若い時に母が亡くなり、父は子供たちを連れてオーストラリアに行った。その地で、ヘンリーは成功し、ジョンも少年時代を過ごした。
1854.Ⅰ.6.(金)ヨークシア北ライディングのマイクロフト農場でウィリアム・シャーロック(・スコット)・ホームズ誕生。
1855.Ⅶ.ホームズ一家はボルドーを経て、ポウまで航海。
1858.Ⅴ.ホームズ一家はモンペリエに旅行する。
Ⅸ.7.(火)「アイリーン・アドラー」すなわちクララ・スティーヴンズが米国ニュージャージー州トレントンで誕生
1860.Ⅸ.ホームズ一家はイギリスに戻る。
Ⅹ.エドワード・シェリンフォード73歳で死去。ホームズ一家はロッテルダムに航海して、2ヵ月後ケルンに定住。
1861.Ⅳ.ホームズ一家は約4年にわたる大陸旅行を始める。
Ⅴ.4.(土)第34ポンペイ歩兵隊のアーサー・モースタン大尉の娘としてメアリ・モースタン――後のジョン・ワトスンの二度目の夫人――がインドで生まれた。
1864.Ⅸ.ホームズ一家はイギリスに戻り、ケニントンに別荘を借りる。シャーロックとマイクロフトとはパブリック・スクールに入れられる。シェリンフォードはオックスフォードにはいる。
1865.Ⅷ.ワトスンはハンプシアのウェリングトン大学で補習講義を受けるためにイギリスに帰国。
1865.~66.の冬シャーロック・ホームズが重病にかかる。
1866.Ⅳ.シャーロックはヨークシアに連れて行かれ、マイクロフト農場に近い中学校に通学生として入学。
1868.Ⅸ.サイガー夫妻とシャーロック・ホームズ一行はサン・マロに航海し、ボウまでの陸の旅をした。シャーロックはメートル・アルフォンス・バンサンのフェンシング道場に入門した。
1871.Ⅳ.ホームズ一家はイギリスに戻り、マイクロフト農場に定住する。
1872.夏シャーロックはジェイムズ・モリアーティ教授を家庭教師として学ぶ。
Ⅸ.ワトスンは軍医になろうと考え、ロンドン医科大学に入学。実習の一部として、ロンドンのセント・バーソロミュー病院外科で働く。
Ⅹ.シャーロック・ホームズはオックスフォードのクライスト・チャーチル・カレッジに入学。
1874.Ⅶ.12(日)~Ⅷ.4.(火)とⅨ.22.(火)ホームズは同級生ヴィクター・トレヴァーに、「グロリア・スコット号」事件(1)の解明を頼まれる。「それは初めて手がけた事件だった」「それらが私の生涯で果たした役割をまだ認識してはいなかったが、すでに観察と推理の習慣をまとめ上げて、ひとつの体系にしていた」
Ⅹ.ホームズはケンブリッジのゴンヴィル・アンド・ケイアス・カレッジに入学。
1877.Ⅵ.ホームズはロンドン市モンタギュー街に一室を借り、私立コンサルタント探偵を開業。23年間続くことになる。それから「無活動の月々」が続いた。「どんなに長く待っていなければならなかったか想像もつくまい」ホームズは仕事のない日々を読むことと書くことでつぶした。
1878.Ⅵ.ワトスンはロンドン大学で医学士の称号を取り、軍医コースに進むため、ネトリに行く。
Ⅵ.~Ⅷ.ミュリノー事件
Ⅸ.自殺クラブでの向こう見ずな行い事件
ⅩⅠ.ワトスンはノーサンバーランド第5フューリジア連隊に外科医助手として着任。第5回アフガニスタン戦争が起こった時インドに出征。
1879.Ⅹ.2.(木)マスグレーブ家の儀式」事件(2)「この国ばかりでなくあらゆる国の犯罪記録を探してもこの事件には特にユニークないくつかの点があった。私の乏しい経験では、この奇怪な事件を理解するのに十分ではなかった」
Ⅹ.13.(月)ホームズはハムレットのホレイショウ役として初めてロンドンのステージに登場。
ⅩⅠ.23.(日)ホームズはササノッフ・シェイクスピア研究座と共にアメリカに渡り、8ヵ月にわたるアメリカ旅行を始めた。
1880.Ⅰ.ヴァンダービルトと強盗の事件(「吸血鬼」(40)による)
ワトスンはバークシア(66連隊)に配転。
Ⅶ.6.(火)ボルティモアのアバネッティー族の恐ろしいできごと(「六つのナポレオン」(47)による)
Ⅶ.27.(火)マインワンドの戦いでワトスンは負傷し、当番兵マリの助けで、イギリス軍前線に辿りつく。
Ⅷ.5.(木)ホームズ、アメリカよりイギリスへの帰路につく。
Ⅷ.31.(火)痛みのため衰弱し、ワトスンはペッシャウォーの陸軍病院に移される。ここで彼は腸チフスにかかったが回復した。
Ⅹ.21.(木)ひと月以上も、ワトスンの命は絶望視されていた。彼がやっと意識を回復し、快方に向かった時、医師委員会は、彼を一日も早くイギリスに戻すことを決定した。そこで彼は軍艦オロンテス号に乗せられて出発した。
ⅩⅠ.26.(金)ワトスンはポーツマスの桟橋に上陸し、ロンドンに行きストランド街の私営ホテルに何週間か滞在する。
1881.初期タールトン殺人事件(「マスグレーブ家の儀式」(2)による)
Ⅰ.ワイン商人、バムベリー事件(「マスグレーブ家の儀式」(2)による)
 老ロシア婦人の事件(「マスグレーブ家の儀式」(2)による)
 アルミニウムづえの怪事件(「マスグレーブ家の儀式」(2)による)
 内反足のリコレッティと彼のいまわしい妻の事件(「マスグレーブ家の儀式」(2)による)
 モーティマー・マーベリーのごたごた(「三破風館」(56)による)
 小川と丸太小屋の騒ぎ(「ブルース・パティントン設計書」(38)による)
 マティルダ・ブリッグスとスマトラの大ねずみ事件(「吸血鬼」(40)による)
 オパールの冠に関するファリントッシュ夫人の事件(「まだらの紐」(4)による)
1881.Ⅰ.初旬ワトスンは落ち着いた感じのそれ程高くないアパートの部屋を借りようと決心する。彼がその結論に達したその日、かれはクライテリアン・バーに立っていた。そして後日、「ワトスン先生、こちらシャーロック・ホームズさんです」とスタンフォードが二人を紹介した。ホームズとワトスンは翌日会ってベイカー街221番地Bの貸室を下見すると、すぐにそれを借りることに決めた。