あっは

あっは

achとpfui


自序

 一種ひねくれた論理癖が私にある。胸を敲つ一つの感銘より思考をそそる一つの発想を好むばかげた性癖である。極端にいえば、私にとっては凡てのものがひややかな抽象名詞に見える。勿論、そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起ることを私は知っている。水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描きだす音楽的な美しさを私は知っている。にもかかわらず、私は出来得べくんば一つの巨大な単音、一つの凝集体、一つの発想のみを求める。もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して、しかもその一語をきっぱり叫び得たとしたら――そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら、こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう。私はひたすらその一語のみを求める。けれども、恐らくその出発点がまちがっている私にはその一つの言葉、その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である。架空の一点である。ついに息切れした身をはたと立ち止まらせる私は、或るときは呻くがごとく詠嘆し、また或るときは限りもなく苛らだつ。そして、ついにまとまった言葉となり得ぬ何かがそのとき棘のような感嘆詞となって私から奔しり出る。即ち、achとpfui!私にとって魂より奔しり出る感情はこの二つしかなく、ただそれのみを私は乱用する。

埴谷雄高『死霊』1 講談社文芸文庫
死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)


あっは』と『ぷふい』 埴谷雄高『死霊』について

 「あっは」も「ぷふい」も共に素朴な発声である。充実されたるものの発し出された声である。彼の庶人物はどのように奇怪な未来的長広舌をふるいながらも、この原始土人の如き発声を忘れない。それは「おお」という発声のヴァリエーションであるかもしれぬが、各々の独自の意味を含んでいる。

 「あっは」はドイツ文学、特に『ファウスト』などにでてくるAch! とは多少異っている。壮大な自然や女の美を目撃したりするよりは、むしろ自分自身の心のうごめき、或は会話の相手の心理なり論理なりにおどろき、そこに何ものかを見出し、それによってつき動かされ、いら立ったときに使用されている。それは一種のたまらなさの感情を示す点で、「ぷふい」に似ている。だが「ぷふい」は「あっは」より能動的である。それは相手の思想を断ち切り、はねかえし、自分の心理を放出する前ぶれである。それはもう踏み切っている。思いつめ発見され、おどかされ、「あっは」された物はそこでその主体によって決断され、「ぷふい」され、方向をあたえられる。常に「あっは」し、「ぷふい」しつづけることは、常に発論し、論争し、論断することである。そのたえまなく流出するエネルギー、まるで原子力のように無限な諸人物のエネルギーなくしては、「あっは」も「ぷふい」も、大げさな、耳ざわりなせりふと化してしまう。埴谷は単なる技巧的せりふとして、これを使用しているのではない。彼自身が彼の宇宙、彼の総現実に向って、けなげにも「あっは」し、「ぷふい」する、その強靱なエネルギーの低く沈み、もりあがり、さか立とうとする物音なのである。「あっは」も「ぷふい」もまた「おお」も、独断であり、ガンコであり、倨傲であり、反抗であり、或る種のものの無視であり、蔑視であるかもしれぬ。しかしそれが神経質な詠嘆や、暴露や、気ばらしとしてでなく、すべてのざわめきを吸いこむ宇宙的な闇、すべてのスピードを嘲笑する真空間に向ってなされる場合、それはもはやきわめて素直な、きわめて静的な、調和音となる可能性を包んでいる。

武田泰淳『身心快楽』 講談社文芸文庫
身心快楽 (講談社文芸文庫)

身心快楽 (講談社文芸文庫)