ほんたうにつらい

ほんたうにつらい

 ジョバンニはなんだかわけもわからずににはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一一考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸(さいはひ)になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つゞけて立って鳥をとってやってもいゝといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうしようかと考へて振り返ってみましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。網棚の上には白い荷物も見えなかったのです。また窓の外であしをふんばっってそらを見上げて鷺を捕る支度をしてゐるのかと思って、いそいでそっちを見ましたが、外はいちめんのうつくしい砂子と白いすゝきの波ばかり、あの鳥捕りの広いせなかも尖った帽子も見えませんでした。

 「あの人どこへ行ったらう。」カムパネルラもぼんやりさう云ってゐました。

 「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」

 「あゝ、僕もさう思ってゐるよ。」

 「僕はあの人が邪魔なやうな気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひました。

鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』岩波現代文庫

 「わたり鳥へ信号してるんです。きっとどこからかのろしがあがるためでせう。」カムパネルラが少しおぼつかなさうに答へました。そして車のなかはしぃんとなりました。ジョバンニはもう頭を引っ込めたかったのですけれども明るいとこへ顔を出すのがつらかったのでだまってこらへてそのまゝ立って口笛を吹いてゐました。

 (どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱(ほて)って痛いあたまを両手で押さへるやうにしてそっちの方を見ました。(あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはいないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談(はな)してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったやうにぼんやり白く見えるだけでした。

鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』岩波現代文庫

 そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のやうに流れてくるのでした。「新世界交響曲だわ。」姉がひとりごとのやうにこっちを見ながらそっと云ひました。全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰(たれ)もみんなやさしい夢を見てゐるのでした。

 (こんなしづかないゝとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだらう。どうしてこんなにひとりさびしいのだらう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい、僕といっしょに汽車に乗っていながらまるで女の子とばかり談してゐるんだもの。僕はほんたうにつらい。)ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすやうにして向ふの窓のそとを見つめてゐました。すきとほった硝子(ガラス)のやうな笛が鳴って汽車はしづかに動き出しカムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きました。

鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』岩波現代文庫
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読 (岩波現代文庫)

宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読 (岩波現代文庫)