やっと安心

やっと安心

夏目漱石と文芸委員会

(中略)

  三

 「実は先刻私の作物が選奨されたということを聴いて、甚だ困ったと思っていたところである。困ったというのは、第一に、私は先に博士の学位を返したが、文部省の法では、出した辞令を引戻すことが出来ないというのだから、今回選奨されたとすると、無論辞令に文学博士として記入されるだろうし、そうするとやはり貰うわけには行かない。第二に、私は文芸委員会に、元来主義として反対しているのだから、それから選奨を受けることはできかねる。第三に、美術展覧会の方は賞状ばかりだが、この方は金がついているので、自分からいっては変だが、相当に暮らしている者より外の比較的困っている人たちへ分ける方が当然だと思うから、これを受けることは出来ぬ。要するに以上三点を打消した上でなくては、私は受けることが出来ないし、かつ現に小説を書いているので、そういうことに頭を使うのは、甚だ困ると思っていたが、選奨した作品がなかったと聴いて、先ず安心した。もっtも私といえども、選奨されれば無論感謝する。また一方からいうと、元来文芸院に反対な私の作品を選奨するのも、ちょっと変なことだと思う。私は無論選奨のために提出もしない夏目の作品だけは、除外例として選奨しないことにしてくれると面倒がない。とにかく今回選奨された作品がないとすると、「それはいまの作品は大した甲乙がなく、あるいはいずれも傑作ばかりといっても差支えなく、やはり私の意見通り、それらの作品に皆五十円ずつでも頒かった方がいいと思う」

森銑三『新編 明治人物夜話』岩波文庫