ジェム

ジェム

辺境の戦士国家からイスラーム世界帝国へ

イスラームの復興
トルコの「義経」ジェムの悲劇

 バヤズィト二世(在位一四八一~一五一二年)の時代は、メフメト二世とエジプト征服王セリム一世(在位一五一二~二〇年)との間にはさまれて、あまり華々しい話題のない時代、征服の停滞した時代、地味な守勢の時代などといわれている。だが、果たしてそうであろうか? 三〇年余におよぶかれの治世とその業績についてはまだまだ今後に研究の余地が残されているが、さしあたって、スレイマン一世(在位一五二〇~六六年)の時代に確立する「イスラーム国家」への基礎を固めた時代と評価することができる。


 バヤズィト二世時代の対外的発展、とりわけヨーロッパへの進出がにぶったのは、弟ジェムがヨーロッパ諸国の人質となっていたことと関係が深い。事件の発端は、メフメト二世の王位継承争いである。メフメト二世には二人の息子がいたが、死後最初にイスタンブルに入城して王位を継いだのは長子バヤズィトであった。当時のオスマン帝国では、君主の死後、いちはやくイスタンブルに上洛して玉座に座った者が王位につく「慣行」があった。したがって、地方に軍政官として派遣されていた王子たちにとって、赴任先がどこになるかは、死活問題であった。なぜなら、王位を継承しそこなった王子には、メフメト二世以来法典化された「兄弟殺しの法」による死がまっていたからである。


 弟のジェムは兄の王位継承権を認めず、ブルサで自分の名において貨幣を鋳造しアナトリアの支配権を要求した。しかし、かれのこの行動は、すでに過去のものとなりつつある遊牧分封制的で時代錯誤な行動であった。もとより兄がこうした要求を受け入れるはずもなく、以後兄弟間の争いとなった。ジェムは敗れ、最後にはオスマン朝の仇敵、ロードス島の聖ヨハネ騎士団のもとへ亡命することとなった。騎士団の団長とは旧知の間柄だったからである。ジェムの思惑は、騎士団の援助でハンガリー方面にゆき、そこから兄に対して再度戦いを挑むことであった。しかし、ジェムの思惑は裏切られ、騎士団はジェムをフランスに送った。


 こうしてオスマン帝国の王子はヨーロッパ諸国の対オスマン工作のための絶好の人質となったのである。騎士団はジェムが誘拐されるのを恐れて、フランスの城から城へ転々と幽閉先を変えた。この間、プランスのある領主の娘ヘレンと恋に落ちるなどの様々なロマンスがヨーロッパ人の「オリエンタリズム」をくすぐる逸話としてまことしやかに伝えられているが、真実は家族を偲ぶ悶々とした幽閉生活であったようである。バヤズィトもまたジェムを解放させないためにフランス王ルイ十一世に手紙を書いたり、かれを殺した者に賞金をあたえる布告をだすなど、自分の王位を狙うジェムを抹殺しようと策謀をめぐらせた。その後ジェムは一四八九年五月にローマへ送られた。やがてフランス王シャルル八世がナポリ王国を滅ぼすべくイタリアへ侵攻すると、かれはジェムを反オスマン「十字軍」のシンボルとしてエルサレムへ連れていくために、かれを伴ってナポリへと進軍した。しかし、ジェムは行軍中に発病し、ナポリに入ってまもなく息を引きとった。これもまた、ジェムと近しい関係にあったボルジア家に毒殺されたのではないかという憶測を呼んでいる。なぜなら、ジェムをフランス軍に引き渡したのはボルジア家出身の教皇アレクサンデル六世であり、またジェムは名高いチェーザレ・ボルジアと親しい間柄であったからである。兄との王位争いに敗れたこの「トルコの義経」とでもいうべきジェムの名は、ヨーロッパではジェムジェムの名で、メフメト二世やスレイマン一世についでよく知られている。

永田雄三 羽田正『成熟のイスラーム社会』世界の歴史15 中央公論社