ネクロノミコン

ネクロノミコン

クトゥルー神話の魔道書

ネクロノミコン』 アブドゥル・アルハザード

ネクロノミコン』 アブドゥル・アルハザード著 西暦九五〇年テオドラス・フィレタスによってアラビア語からギリシア語に翻訳 一二二八年オラウス・ウォルミウスによってギリシア語からラテン語に翻訳 一四〇〇ごろドイツにてゴチック書体版刊行 一五〇〇―一五五〇年ごろイタリアにてギリシア語版刊行 一六二二年スペインでラテン語版刊行 十七世紀初頭ジョン・ディー博士が英訳(ラヴクラフト)

 本書はもちろん〈クトゥルー神話〉でもっとも有名な書物であり、もっとも頻繁に言及される書物であり、もっとも情報量の多い書物であるとともに、クトゥルーに関してもきわめて重要な書物である。幸いにして、かなりの引用がおこなわれており、長文にわたるものもある。本書そのもの、翻訳者の大半、著者は、すべて架空の存在であり、ラヴクラフトは純然たる架空の伝承の中に、現実の歴史的事実を最も効果的に挿入する手法を駆使した。たとえばラテン語に訳した人物は実在する。オラウス・ウォルミウスは一五八八年五月十三日にユトランドのアルバス村で生まれた、デンマークの牧師兼学者である。ルネボルクでギリシア語とラテン語を学び、デンマークの歴史、政治、文学に関するきわめて重要な書物を著した。

「狂える詩人」あるいは「狂えるアラブ人」と呼ばれる、サナア(イエメン)のアブドゥル・アルハザードは、紀元七〇〇年ごろアミアデがカリフの地位についていた時代に生きていたとされる。詩人の例にもれず、自ら公言する宗教を信奉することはなかった。無関心な回教徒として、ヨグ=ソトースやクトゥルーといった邪神や魔物をひそかに崇拝した。黒魔術や悪魔学の失われた知識を求め、バビロンの廃墟を訪れてメンフィスの地下洞窟に入りこんだ。つぎにメンフィスやバビロンよりも古い都市、アラブ人がバレド=エル=ジン(魔物の都市)と呼び、トルコ人がカラ=シェール(暗黒の都市)と呼ぶ、トルキスタンの無名都市を探し求め、後に『ネクロノミコン』でこの都市を「邪悪都市」と名づけた。

 古代アラブ人がロバ・エル・カリイエ(虚空)と呼び、現代のアラブ人がダーナあるいは深紅の砂漠と呼ぶ、南方の砂漠に位置する、黒い石で築かれたこの沈黙の都市で、アルハザードは十年間ひとりきりで暮した。そして邪霊と魑魅魍魎が跋扈するといわれるこの砂漠で、人類よりも古い種族の年代記と怖ろしい秘密を見いだした。文明社会にもどってからは、キャメロットやエルドラドのように伝説的な、アラビア神話に登場する円柱都市アイレムに行っていたのだと語った。

 晩年はダマスカスに住み、その地で紀元七三〇年ごろに、隠れもなき著書を著し、『アル・アジフ』と書名をつけた――これはアラブ人が魔物の遠吠えだと信じる夜行性昆虫のたてる音をあらわすアラビア語である。アルハザードは七三八年に死んだ(あるいは姿をくらました)が、十二世紀の伝記作者イブン・カリカンによれば、アルハザードは真昼の燦燦たる日差のもとで不可視の魔物に捕らえられ、大勢の者が見まもるなか、無残にもむさぼり喰われたという。『アル・アジフ』はつづく二世紀のあいだ、当時の魔術師や哲学者から相当な評価をうけ、ひそかに写本が作成されて回覧された。九五〇年にはコンスタンティノープルのテオドラス・フィレタスがアラビア語の原本をひそかにギリシア語に翻訳して、『ネクロノミコン』の標題をつけ、この言葉の意味をめぐって議論が百出している。ラヴクラフトの批評家であり研究家でもあるジョージ・ウェッツルは、『死者の名の書』と訳し、マンリイ・バニスターは『死者の掟の書』と訳しているが、私にはギリシア語がわからないので、どちらが正確なのか判断をつけることはできない(ついでながら、ギリシア人はしばしば翻訳書の書名として冒頭の文章をそのまま用いたと言うことを、チャールズ・ターナーが教えてくれたことを申しそえておく。もしもそうなら、『ネクロノミコン』の冒頭が、「死者の名(掟)の書」であると推測できる)。

 ミカエル総主教が所在の知られるかぎりのギリシア語版をすべて焚書処分にした一〇五〇年までに、アラビア語版は失われていた。しかしながらアラビア語版が一部、サンフランシスコにあって、大火事で失われたともいわれている。

 ギリシア語版が禁書になった後も、ひそかに所有していた者がいたらしい。オラウス・ウォルミウスは一二二八年に稀覯書と化したギリシア語版から名だたるラテン語版を作成した――これは十五世紀にドイツで、十七世紀にスペインで刊行されている。一二三二年にはギリシア語版及びラテン語版が教皇グレゴリウス九世によって禁書にされた。ギリシア語版の最後の一冊は、一六九二年にセイレムのある家が焼け落ちたときに灰燼に帰した。もっとも画家リチャード・アプトン・ピックマンのボストンの実家に一冊所有され、一九二六年にピックマンが失踪したときに失くなったという、漠然とした噂もある。

 十七世紀初頭、『ネクロノミコン』はジョン・ディー博士によって英訳された。ディーの翻訳は刊行されることなく、写本として回覧されているが、不完全で断片的なものだと思われている。

アル・アジフ』とその著者の物語に事実がかかわるのはこれで二度目である。ジョン・ディー博士は実在した。一五二七年七月十三日にロンドンに生まれ、ケンブリッジで学んで文学士の学位を得た。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの特別研究員だったころに、オカルト書を読み――おそらく同時代人のマーロウが『ファウストス博士』にしたてたコルネリウス・アグリッパの著書も読んだのだろう――後には占星術、数学、哲学、錬金術、占術を研究した。二十三歳で大学をはなれたが、オックスフォードをはじめとする大学から招聘されたことから見て、学者のなかでも傑出した人物だったと思われる。一五五五年には魔術を実践したことで非難されたが、エリザベス一世の寵愛を受けて無罪となり、以後は時折占星術等を用いて女王に助言をした。女王の戴冠の日を選んだとされるほか、占術に用いられる水晶球の発明者ともされている。広範囲にわたる著作のなかには現在も版を重ねる『神字モナド論』のほか、魔術的な主題をあつかったものもある。もしも『ネクロノミコン』のような書物が存在するなら、ジョン・ディーこそ英訳者としてもっともふさわしい人物だろう。

 〈クトゥルー神話〉では『ネクロノミコン』の完全版は五部か六部しか現存しないとされているものの、およそ十一部が存在するらしい。おそらくこのなかには不完全なものがふくまれているのだろう。十五世紀のドイツ版の完本が大英博物館の「特別書庫」に収められ、もう一部(おそらく不完全なもの)が名高いアメリカの富豪の蔵書中にあるらしいことが判明している。十七世紀のスペイン版についてはパリ国立図書館、マサチューセッツ州アーカムのミスカトニック大学付属図書館、ブエノス・アイレス大学付属図書館、ハーヴァード大学付属ワイドナー図書館に、それぞれ一部ずつ所蔵されている。都合六冊である。他に現存するものがどの版なのかはよくわからない。ペルーのリマ大学付属図書館、マサチューセッツ州セイレムのケスター文庫、ロード・アイランド州プロヴィデンスのフェデラル・ヒルの荒廃した教会に一部ずつ存在する。さらにさまざまな版のものが現存するといわれている――一冊はひそかにカイロに(おそらく個人の蔵書として)、いま一冊はローマのヴァティカン図書館にあるとされる。これで十一冊である。

 悪魔学や妖術にかかわる多くの書物とは異なり、多くの国の権力者やあらゆる宗教団体によって発禁処置がとられているため、本書『ネクロノミコン』は稀覯書中の稀覯書となっている。

 どこでこんな書物のアイデアを得たのか、その手がかりをラヴクラフトはのこしていない(もしかしたら刊行が待たれる『書簡集』に記されているかもしれない)が、ラヴクラフトの著作の研究家たちはそれぞれ独自の解釈をこころみている。『アーカム・サンプラー』に掲載された記事のなかで、ジョージ・ウェッツェルは、ラヴクラフトが祖先をさかのぼって初期ニューイングランドの入植者トーマス・ハザードを見つけだしたことを指摘して、ダーレス=ダレットのように、ハザード=アルハザード説を推測している。また同様に『トートの書』がアルハザードの書物の原型ではないかとも考察している。エジプトの民間伝承に精通しているかたなら、この伝説的な大冊がテーベの墓地でエジプト人の書記に発見されたことや、これを読む者すべてを怖ろしい運命が待ちうけているといわれていることを思いだされるだろう。私自身としては、ラヴクラフトは『トートの書』を〈クトゥルー神話〉に導入しているのだから、何もわざわざそれをもとにした別の謎めいた書物をつくりだすはずがないと思う。『ネクロノミコン』のもとになった書物として、もっともありえそうなのは、ビアースやチェンバースのカルコサ神話に登場する架空の戯曲、『黄衣の王』ではないだろうか。『ネクロノミコン』とおなじく、この書物には読むものすべてに嫌悪を感じさせる致命的で邪悪な知恵が記されている。チェンバースもまたラヴクラフトのように、自作のなかにその書物の引用をくみこんだ。ラヴクラフトはカルコサ神話から多くのシンボル――ハスター、ハリ湖、ヒヤデス、カルコサさえ――をとりあげて、〈クトゥルー神話〉にくみこんでいるが、戯曲そのものはとりあげていないことからも、アイデアの根源を『ネクロノミコン』の背後にある『黄衣の王』から得ているのだろう。

リン・カーター「クトゥルー神話の魔道書」大瀧啓裕編『クトゥルー』2 青心社
クトゥルー〈2〉 (暗黒神話大系シリーズ)

クトゥルー〈2〉 (暗黒神話大系シリーズ)

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