フリードリヒ

フリードリヒ

ドイツ皇帝フリードリヒ一世

 一一八九年十月、アッカの合戦が激烈なころ、サラディンはアレッポからの通信を受けた。それによれば、「アルマンの王」、つまりドイツ皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(赤ひげ)がコンスタンティノープル経由、二十万か二十五万の部隊を連れてシリアへ進撃中とある。スルタンは深く憂慮した――と、そのとき彼のそばにいた、忠実なバハーウッディーンは語る。〈事態は極めて重大とみた彼は、全ムスリムをジハードに召集し、カリフに状況の推移を告げる必要があると判断した。そこで彼はわたしに向かい、シンジャル、ジャジーラ、モースル、イルビルの諸侯に会いに行って、ジハードに加わるため、彼ら自身兵を率いてやってくるように仕向けよと命じた。次いで私はバグダードへ赴き、信徒の長に腰を上げさせることになっており、この任務を果たした。〉カリフの眠りをさますため、サラディンは書面のなかで力説している。〈ローマに居を構える法王はフランクの人民にエルサレムへの進撃を命じております〉。また同時に〈西洋のフランクが東洋のフランクと関連行動をとっているから〉として、サラディンはマグリブ(北アフリカ)とムスリム=スペインの首脳に信書を送り、同胞の救援に赴くよう訴えている。

 全アラブ世界で、国土回復によって喚起された熱狂は恐怖へ席をゆずる。フランクの復讐は恐ろしいぞ、血の海の二の舞になるぞ、聖地はまた取られるぞ、シリアとエジプトはふたつとも侵略者の手に落ちるぞ――こんなひそひそ話が聞こえる。しかし、またもや偶然が、あるいは神の摂理が、サラディンのために生じた。

 ドイツ皇帝は意気揚々と小アジアを通り抜け、一一九〇年の春、クルジュ・アルスランの後継者たちの都コンヤの全面に達し、たちまち城門を突破してからアンティオキアへ使節を送ってその到着を告げた。アナトリア南部のアルメニア人たち(正教派)はおののき、司祭はサラディンのもとに使者を急派して、この新たなフランクの侵略から自分たちを守ってくれと嘆願した。六月十日、極暑のため、フリードリヒ・バルバロッサはタウロス山脈のふもと、さる小川で水浴したが、そのとき心臓の発作に襲われたのか、イブン・アル=アシールの説明では、〈深さがせいぜい腰ほどのところで水死する。彼の軍隊は四散した。ドイツ人とは、フランクのなかでもとりわけ数が多く、またがんこな民族であるが、神はこうしてムスリムに彼らの悪意から免れさせたもうたのである〉。

アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』ちくま学芸文庫
アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)

アラブが見た十字軍 (ちくま学芸文庫)

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