ヘシュカズム

ヘシュカズム

ギリシャ正教

祈りの行

 ギリシャ正教の修道院における祈りは、ヘシュカズムと呼ばれる行法に則って行われる。ヘシュカズムとは、自己の内面への沈潜、静寂(ギリシャ後でヘーシュキア)を求めて精神を集中するために、イエスの祈りと呼ばれる短い祈り「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐れみ給え。」を繰り返し称える行法である。その際、自己の内面への精神集中の一助として、座法や呼吸法をともなった精神身体技法、心身技法を援用する。イスラームはスーフィズムのズィクル(神の名の連祷)や仏教は真言密教の三密(身、口、意)瑜伽行とほとんど変る処はない。

落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』講談社選書メチエ

 「ほとんど変る処はない。」は、信仰の立場によって大きく解釈の分かれるところでしょうが、まあ見た目が似ている、くらいの意味でしょうか。

ギリシャ正教

ヘシュカスト論争

 九六三年、アトス山に大ラウラ修道院が設立され、後にヘシュカズムと呼ばれる、「イエスの祈り」、「キュリエ・イエス・クリステ、ヒュイエ・トゥ・テウ、エレイソン・メ、主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐れみ給え。」という短い祈りを繰り返すことを通じて、精神を自己の内奥に回帰させヘーシュキア、静寂の境地に達することにより、自己の内奥に臨在する聖霊すなわち神と一つに成る行が修められて来たことは、すでに述べた。ギリシャ正教の修道院においては、祈りを通じた人間と神との一致、人間の神化、テオーシスすなわち「人が神に成る」ことが目指されてきたのである。

落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』講談社選書メチエ

ギリシャ正教

ヘシュカスト論争

「人が神に成る」ことを目指すのは、キリスト教わけてもギリシャ教父の伝統なのである。

 しかし「人が神に成る」という言説が、たとえ正当な言説であったとしても、矛盾に充ちたものであることに変りhなあい。この世界に生きる人間がこの世界の自己を超越して神と一つに成る。この世界に内在する人間がこの世界を超越する神と一致する。明らかに矛盾である。ギリシャ的教養人たるキリスト者、ギリシャ教父は、この非合理的な言説に何らかの弁明を与えねばならない。さもなくば、この世界に生きる僕たちが自らの内奥の向こう側、神の明るい深みに降り立つ希望など、ついに達成しえないからである。キリスト教が僕たちもまた神の晴れやかな場所に達しうるという希望の福音であるとするならば、人間が自己を超越して神と一つに成りうる、「人が神に成る」という言説は、ぜひとも弁明されねばならない。

落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』講談社選書メチエ

パラミズム

ヘシュカズム

「イエスの祈り」は、「キュリエ・イエス・クリステ、ヒュイエ・トゥ・テウ、エレイソン・メ、主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐れみ給え。」という短い祈りであるが、さらに短く「キュリエ、エレイソン、主よ、憐れみ給え。」あるいは単に「エレイソン・メ、僕を憐れみ給え。」という短縮形も許される。この「イエスの祈り」を繰り返し称える、いわゆる神の名の連祷を介して、精神を自己の内奥に集中するのである。始めは口に出して、次第に心の中で、「イエスの祈り」を連祷していると、やがて心は静寂の境地に入って行く。

落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』講談社選書メチエ
ギリシャ正教 無限の神 (講談社選書メチエ)

ギリシャ正教 無限の神 (講談社選書メチエ)