三島由紀夫読書術

三島由紀夫読書術

文章を味わう習慣

 歌舞伎に行きますと、ときどき侍が悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて「どりゃ書見をいたそうか」と言って本を読みだします。

三島由紀夫『文章読本』中公文庫

第二章 文章のさまざま

文章を味わう習慣

 歌舞伎に行きますと、ときどき侍が悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて「どりゃ書見をいたそうか」と言って本を読みだします。

 われわれはこんなふうに本を読むことはほとんどありません。昔はわれわれが字引を枕にしたり、お尻に敷いたりすると親に叱られたものですが、いまではそんなことを叱る親はありますまい。泉鏡花氏は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れはしでも、およそ字の書いてあるものは粗末に扱うことをしなかったと言いますが、いまもマス・コミ時代に、そんなに文字を大切にしていたら身がもたなくなるでしょう。週刊誌は読み捨てられるのが運命であり、三つ四つの駅を通過する通勤の電車のなかで、それは隅から隅まで目を通されて網棚に残されます。この情勢がますます激しくなることは必然的であって、私は外国の飛行場の待合室で、大きい『ライフ』が椅子の上に置かれているのを忘れものと思って人に呼びかけたことがあります。すると立って行った人は、それは捨てたのだと言ってすましていました。『ライフ』のようなアート紙の大判の立派な雑誌は、日本ではまだ大切にするでしょうが、アメリカでは週刊誌と同じように扱って、ペラペラッとめくられてたちまち捨てられてしまう運命にあります。

 このような時代に次第に文章を味わう習慣が少くなるのは当りまえと言えましょう。しかし昔の人は小説を味わうと言えば、まず文章を味わったのであります。今日、小説の読者は、ちょうど自動車で郊外を散歩するようなもので、目的地が大切なのであって、まわりの景色や道端の草花やちょっとした小川の橋の上で釣りをしている子どもの姿も、そういうものは目にとめずに、目をとめたとしても一瞬のうちに見過ごしてしまいます。しかし昔の人は本のなかをじっくり自分の足で歩いたのです。交通機関のない時代としては無理もありません。歩けば歩くなりにいろいろなものが目を惹きます。歩くこと自体は退屈ですから、目に映るもの一つ一つを楽しみ味わうことが、歩くことの喜びを豊富にします。私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品の中をゆっくり歩いてほしいと申します。もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。

三島由紀夫『文章読本』中公文庫

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)