六月六日の崔府君の生誕節

六月六日の崔府君の生誕節

幽蘭居士東京夢華録 巻八

六月六日の崔府君の生誕節と二十四日の神保観神の生誕節

 六月六日は、都の北の崔府君神*1の生誕節である。おびただしい献進が行われ、これほどの賑わいはない。

 二十四日は、都の西の灌口二郎神*2の生誕節で、最も盛んな賑わいである。廟は万勝門外一里ばかりのところにあり、「神保観」という勅号を賜わっている。二十三日に、後苑作と書藝局などの場所で製作せしめられた毬杖・弾弓・弋射(いぐるみ)などの道具や、鞍・轡(たづな)・銜勒(くつわ)・獲物入れの籠といった調度を天子より献進されるが、どれもみな手のこんだ品ばかりで、それを鳴りもの入りで廟へ奉納する。本殿の前の土の壇には音楽の舞台が設けられ、教坊と鈞容直(ぐんがくたい)が音楽を奏し、入れかわり立ちかわり雑劇(しばい)と舞旋(おどり)を演ずる。太官局(太官局は光禄寺の附属官庁で、朝会、祭祀の膳羞を担当する。『宋史』職官志では大官令として記載され大の字になっているが、秦の太官の流れをひくから太が正しい。『文昌雑録』巻三などにも太官局の名がみえる。)からは神饌をお供えするが、夜通し二十四膳に達し、一膳ごとに式次第が決まっている。

 二十四日の夜、五更(午前四時ごろ)になると、争って焼香の一番乗りをやる。中には廟に泊まりこみ、夜なかに起きて先陣争いをするものもある。夜が明けると、諸官庁や諸商人組合や庶民から、非常に多くの献進がある。奉納演芸*3は舞台の上で演ぜられるが、これに対する寄進は、万という数にも達しかねない。朝から百戯が上演されるが、たとえば竿登り・趯弄(てきろう)*4・跳索*5・相撲・鼓板*6・小唄・闘鶏・落語・狂言・謎当て・合笙・喬筋骨・喬相撲・浪子雑劇(よたものしばい)・果物売りのものまね・学像生*7・鉾(ほこ)操り・鬼神扮装・砑鼓*8・牌棒(ぶげい)・道術など、あらゆる種類のものがあり、日暮れまでひっきりなしに上演する。

 本殿の前の二本の旗竿は、高さ数十丈あり、左のは京城所、右のは修内司が組み立てたもので、それぞれ二手に分れて竿に登って芸当をやる。時には竿の先に横木を取りつけ、その上に並んで、鬼神に扮したり、口から火煙を吐いたりして、とてもはらはらさせる。夕方になっておしまいになる。

孟元老『東京夢華録』東洋文庫 平凡社

*1:いまも府君廟といって各地に見られる。その神はもと崔子玉という人で、隋の大業三年に生まれたといわれ、唐の貞観年中に潞州・磁州などの地方の県令となったという。玄宗の世から廟に祀られ、霊験あらたかだったので、宋の真宗のとき「護国西斉王」の号を賜わり、景祐二年(一〇三五)には「護国顕応公」に封ぜられた。本廟は磁州にあった(『宋会要』礼二〇―二六・二一―二五、楼鑰「中興顕応観記」、『事物紀原』巻七、『三教源流捜神大全』巻二。)しかし南宋の費袞の『梁谿漫志』巻一〇には、この神は崔子玉ではなくて、唐の貞観年間に相州の滏陽(ふよう)の令であった崔某で、のち蒲州・磁州の刺史となり、仁政を施したので神に祀られたのだと異説を立てているし、そのほかにも諸説ある。また鄭烺の『崔府君祠録』には、この神に関するあらゆる記録が集大成されている。なお『歳時広記』巻二四における本章の引用では、廟は「京城の北十五里に在り」となっている。最近の研究としては、高橋文治「崔府君をめぐって――現代の廟と伝説と文学」(『田中博士頌寿記念中国古典戯曲論集』所収、一九九一年)がある。

*2:灌口二郎神は北宋以来、最近まで、民間で最も広く信仰された神の一つであるが、その来歴には二説ある。一は秦の世に四川の太守だった李冰またはその次子となす説で、治水と灌漑によって民利を計ったので神に祀られたという(『宋会要』礼二〇―二四・『朱子語類』巻三・『事物紀原』巻七・『独醒雑志』巻五・『呉船録』・『元史』文宗紀など)。現在では成都から西北五十余キロの灌県の都江堰(岷江を灌漑用に分流させる大堰)の側らに李冰父子を祀った二王廟がある(『呉船録』にいう崇徳廟がこれに当る)。この都江堰による壮大な灌漑システムについては、ニーダム氏による精細な調査報告がある(邦訳『中国の科学と文明』第一〇巻「土木工学」三八六―四〇〇ページ)。第二は隋の隠士の趙昱とする説で、同じく四川の嘉州で洪水があった時に霊異を現わしたので、灌江の河口に廟を立てて祀られることになったという。また真(ママ)宗の世、益州の乱の鎮定にその神助があったともいう(『三教源流捜神大全』巻三・『山西通志』その他)。また明代の小説『封神演義』などでは、この神の姓名を楊戩としている。あとの本文に見える奉納調度品の種類からも分るように、その神像は狩猟の装いをしているのが普通である。李思純「灌口氐神考」(『江村十論』所収、一九五七年)は、この神の源流を北方遊牧民族であった氐族が信仰した牧神だと推論し、狩りの装いをするのは、その古い信仰形態の遺存を示すと解する。また王文才「東漢李冰石像与都江堰」(『文物』一九七四年第七期)や、筧文生『成都重慶物語』(集英社、一九八七年)は最良の参考になる。なおかつ容肇祖「二郎神考」(『民俗』六一・六二期、一九二九年)は民俗学的な考察として出色のもの。

*3:原文「社火」。南宋の范成大の「上元紀呉中節物」と題する俳諧体の詩の自注に、「民間の鼓楽、これを社火という。ことごとくは記すべからざるも、大抵滑稽を以て笑を取る」とあるのがそれで、広い意味ではいわゆる講中を組織してお祭りをやり神楽を上げることをいう。『宋会要』刑法二―七一・二―八九にもそれがみえる。また明の顧起元の『説略』巻二四に説く如く、のちには都市の盛り場の演芸場を広く指していうこともある。

*4:未詳。もし「撮弄」と同じだとすれば、『通俗編』巻三一というように、手品のことである。以下の各演技で、巻五その他で既出のものはその項を参照。

*5:明代の『帝京景物略』にいう「跳白索」は縄とびであるが、ここはおそらく綱渡りであろう。

*6:鼓と笛と拍板とで合奏する俗楽。「打断」ともい、伎楽の一種で、淫靡な歌を伴ったらしい。『能改斎漫録』巻一によれば、崇寧・大観年間から流行し、政和の初め禁止令が出たが止まず、ただ名が「太平鼓」と変わっただけだったという。この楽曲は元代にも行われ、胡祗遹に「太平鼓板」と題する詩二首があり(『紫山大全集』巻七)、『事林広記』戊集には鼓板の楽譜を載せている。

*7:『都城紀勝』に少女童像生叫声社という興行団体の名が出ており、『西湖老人繁勝録』にも像生を専門とする女芸人のことが載っている。これらの記述を綜合して、これをものまねの芸と断定してよいように思う。いわゆる声帯模写だけでなく、百面相のような形状の摸擬をも含む。がんらい「像生」とは、本物そっくりに似せること、またそのような作り物を広く指していう言葉だからである。『林間録』巻下に引く古仏偈に、「人が路の土を掘って、私人に(仏の)像を造り為すが如し。愚人は像生(仏そっくり)と謂うも、智者は路の土なりと言う」という例もある。上述の像生叫声とは、各種の物売りの呼び声や口上を真似る芸である。「像生(シアンシヨン)」を今日の「相声(シアンシヨン)」(かけあい万歳)に当てる説は誤りである。

*8:『能改斎漫録』巻一三に、政和三年(一一一三)、禁止すべき楽曲として尚書省から指定された種目のなかに、上述の「打断」(即ち鼓板)と共にこの砑鼓の名が挙がっている。歌と舞を伴った芸能の一種で、「訝鼓」または「迓鼓」とも書く。『続墨客揮犀』巻七によれば、王子醇が創案して麾下の兵士に習わせたのが流行の始まりだという。『朱子語類』巻一三九に、「前輩の文字には気骨あり、故に其の文は壮浪たり。欧公・東坡も亦た皆経術の本領の上に功を用いき。今人は只だ是れ枝葉の上に粉沢するのみにして、訝鼓を舞わすが如く然り。其の間に男子・婦人・僧・道・雑色、有らざる所なきも、但し都(す)べて是れ仮(にせ)の底(もの)なり」とあって、大体の想像はできる。明の楊慎の『丹鉛雑録』巻一には、これの語源的説明を試みて、「宋儒の語録に、今の古文は迓鼓を舞わすが如しとあり、何の語たるかを解せざる人多し。按ずるに、元人の楽府(うた)に(村里迓鼓)の名あり、宋人の楽苑に(衙鼓格図)あり、この衙鼓格とは官衙の厳(いま)しめの鼓の節(リズム)なり。衙の字訛して迓となれるなり。曲に(村里迓鼓)と名づくるものは、村里を以てして官衙に効(なら)いしものにして、其の衣裳も声節も必ず哂(わら)うべきもの多かりしならん。是を以て之に名づけたるなり。語録に迓鼓を舞わすが如しと云えるは、古人の学なくして古人の言に効うこと、村人が官衙の鼓節を学(まね)ぶが如くなるを謂うなり」と解説している。要するに、迓(訝・砑)鼓の本義は衙鼓――役所で打ち鳴らす太鼓――であり、そのリズムが農村の舞楽に取り入れられて俗曲となったのがこれだと言うのである。元代の「迓鼓」の舞については、上述の胡祗遹にそれを詠んだ詩二首があるが、なお具体的には分らない。最近の常任俠氏の報告によれば、この演舞は現在も福建の漳州・泉州のあたりに伝存しており、「迎閣」とか「閣棚」と呼ばれて、多くは歴史上または説話中の英雄の物語を演ずるという(『中国古典芸術』一一三ページ)。しかし、今日の福建でのそれが、果して同氏のいう如く宋元の迓鼓に源を発するものであるかどうか、大いに疑わしい。なお『金瓶梅詞話』四二回に、元宵節の夜宴で妓女が唱う(灯詞)が載っており、そのなかに「それ、あちらでは(鮑老)の舞い、……こちらでは(迓鼓)の舞い」とあるから、明代中期にはまだ伝承されていたらしいが、その頃の実際もやはり分らない。