咲耶子

咲耶子

 伊那丸を助ける少女。

あなたの草むらから、月毛の野馬にのったさげ髪の美少女が、ゆらりと気高いすがたをあらわした。

 一同はそれを見ると、

「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」

 と荒くれ武士ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。

「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞こえたかえ?」

 と駒をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが

吉川英治『神州天馬侠』1 講談社吉川英治文庫

 その正体は、富士浅間の山大名、根来小角の娘。

 根来の死によりその手下を率いることとなる。

 抜く手も見せず、民蔵がサッと斬りつけた切ッ先からヒラリと、蝶のごとく跳びかわした咲耶子は、バラバラと小高い丘へかけあがるよりはやく、帯の横笛をひき抜いて、片手に持ったまま宙へ高く、ふってふってふりまわした。

 ああ! こはそもなに? なんの合図。

 それと同時に、ただいちめんの野と見えた、あなたこなたのすすきの根、小川のへり、窪地のかげなどから、たちまち、むくむくと動き出した人影。

 ウワーッと喚声をあげて、あらわれたのは四、五十人の野武士である。手に手に太刀をふりかざして、あわてふためく穴山一党のなかへ、天魔軍のごとく猛然と斬りこんだ。

 ニッコと笑って、丘に立った咲耶子が、さッと一閃、笛をあげればかかり、二閃、さッと横にふればしりぞき、三閃すればたちまち姿をかくす――神変ふしぎな胡蝶の陣。

吉川英治『神州天馬侠』1 講談社吉川英治文庫

 胡蝶の陣! 胡蝶の陣!

 裾野にそよぐ穂すすきが、みな閃々たる白刃となり武者となって、声をあげたのかと疑われるほど、不意におこってきた四面の伏敵。

 ああ、胡蝶の陣。


 月の夜には澄み、朝(あした)は露をまろばせても、聞く人もないこの裾野に、ひとり楽しんでいる笛は、咲耶子が好きで好きでたまらない横笛ではないか。

 しかし、その優雅な横笛は、ときにとって身を守る剣(つるぎ)ともなり、ときには、猛獣のような野武士どもを自由自在にあやつるムチともなる。

 いましも、小高い丘の上にたって、その愛笛を頭上にたかくささげ、部下のうごきから瞳をはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の化身といおうか、富士の女神とたとえようか、丈なす黒髪は風にみだれて、麗しいともなんともいいようがない。

吉川英治『神州天馬侠』1 講談社吉川英治文庫