大勝利

大勝利

 母里が昔読んだときには「大勝利の巻」「またまた大勝利の巻」と章題が訳されていたのでお気に入りのフレーズになりました。岩波文庫版の「勝利の記録」「続勝利の記録」を読むときも脳内で置き換えております。

 第二章 勝利の記録

(中略)

相手を見て、もし口べたな奴なら罵倒するし、弱そうな奴なら殴りつける。ところが不思議なことに、反対に阿Qがやっつけられるほうが多かった。そのためかれは、次第に方針を変えて、もっぱら睨みつけることにした。

(中略)

 ところが遊び人連中は、しつこくからんで、とうとう殴り合いになった。形式上は阿Qの負けになる。色つやの悪い辮髪をつかまれ、土塀にコツンコツン頭をぶつけられる。それでやっと相手は満足して、意気揚々と引きあげる。阿Qはしばらく立ったまま考える。《倅にやられたようなものだ。ちかごろ世の中がへんてこで……》そしてかれも満足して、意気揚々と引きあげる。

 阿Qは、心に思ったことを、ついあとで口に出してしまう。そのためこの精神的勝利法の存在が、阿Qをからかう連中のあいだに知れわたった。それからは、色つやのわるいかれの辮髪を引っぱるとき、事前にこう通告するようになった。

 《阿Q、これは倅が親を殴るんじゃないぞ。人間さまが畜生を殴るんだぞ。自分で言ってみろ、人間さまが畜生を殴るんだと》

 阿Qは、両手で辮髪の根元をおさえ、首をねじ曲げる。

 《虫けらを殴るんさ。これでいいだろ? おいら、虫けらさ――もう放してくれ!》

 たとい虫けらであろうと、遊び人たちは放してくれない。相変らず近くの土塀に五、六回コツンコツンやり、これで阿Qも参ったろうと思って、満足して意気揚々と引きあげる。ところが阿Qのほうも、ものの十秒とたたずに、やはり満足して意気揚々と引きあげる。我こそ自分を軽蔑できる第一人者なりとかれは考えるのだ。「自分を軽蔑できる」だけを除けば、残るは「第一人者」だ。状元だって「第一人者」じゃないか。《おめえなんか、なんだってんだ!》

 こうしてさまざまな妙計によって怨敵を克服したあと、阿Qはすっかり陽気になって酒屋へとび込み、二、三杯ひっかけ、ここでもふざけたり言いあったりして、またも意気揚々と土地廟へもどると、ごろっと横になってすぐ寝てしまう。

(中略)

どうやら殴られたり蹴られたりしたらしい。数人のものが、不思議そうに自分を見ている。おかしいなと思いながら土地廟にもどって、しばらくして気がついたら、かれの銀貨の山がなくなっていた。祭礼あてこみの賭場は、よそものが多い。尻の持って行きどころはないのだ。

 まっ白な、キラキラ光る銀貨の山! しかも自分のものである銀貨の山――それがなくなった! 倅に持って行かれた、と考えてみてもおもしろくない。おれは虫けらなんだ、と言ってみても、やはりおもしろくない。今度ばかりは、かれは敗北のにがさを味った。

 だがかれは、敗北をたちまち勝利に変えることができた。かれは右手をふりあげて、自分の横っつらを力いっぱいつづけざまに殴った。飛びあがるように痛かった。だが殴ったあとは気がはれて、殴ったのは自分だが、殴られたのは別の自分のような気がした。そのうちに自分が他人を殴ったような気がして――痛いことはまだ痛かったが――かれは満足し、意気揚々と横になった。

 かれはぐっすり睡った。

魯迅作 竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』岩波文庫