天璋院

天璋院

「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」

夏目漱石『吾輩は猫である』岩波文庫 p43-

 障子の内で御師匠さんが二弦琴を弾き出す。「宜い声でしょう」と三毛子は自慢する。「宜いようだが、吾輩にはよくわからん。全体何というものですか」「あれ? あれは何とかってものよ。御師匠さんはあれが大好きなの。……御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」六十二で生きている位だから丈夫といわねばなるまい。吾輩は「はあ」と返事をした。少し間が抜けたようだが別に名案も出て来なかったから仕方がない。「あれでも、もとは身分が大変好かったんだって。いつでもそう仰しゃるの」「へえ元は何だったんです」「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」「何ですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹のお嫁にいった……」「なるほど。少し待って下さい。天璋院様の妹の御祐筆の……」「あらそうじゃないの、天璋院様の御祐筆の妹の……」「よろしい分りました天璋院様のでしょう」「ええ」「御祐筆のでしょう」「そうよ」「お嫁に行った」「妹のお嫁に行ったですよ」「そうそう間違った。妹のお嫁に入った先きの」「御っかさんの甥の娘なんですとさ」「御っかさんの甥の娘なんですか」「ええ。分ったでしょう」「いいえ。何だか混雑して要領を得ないですよ。詰るところ天璋院様の何になるんですか」「あなたもよっぽど分らないのね。だから天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって、先っきから言ってるんじゃありませんか」「それはすっかり分ってるんですがね」「それが分りさえすればいいんでしょう」「ええ」と仕方がないから降参をした。われわれは時とすると理詰の虚言(うそ)を吐(つ)かねばならぬ事がある。

夏目漱石『吾輩は猫である』岩波文庫 p43-
吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)

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