後漢 献帝

後漢 献帝

三国志年表 後漢 献帝


小南一郎『三国志』8 ちくま学芸文庫 より作成


西暦干支元号事項
189己巳永漢元年・中平六年二月、皇甫嵩が陳倉で王国を破る。四月、劉虞が太尉となる。同月、霊帝が逝去、年は三十四。少帝劉弁が即位、年は十七。光熹と改元する。大将軍の可進が実権を握り、蹇碩を誅殺、さらに董重・董太后に迫って自殺をさせる。八月、宦官の張譲ら、宮中において可進を斬る。袁紹は宮中に兵を入れて宦官を皆殺しにする。少帝と陳留王は宮外に脱出、少帝は都につれもどされて董卓の支配下に入る。昭寧と改元を行なう。董卓はみずから司空となる。九月、董卓は少帝を廃し、陳留王劉協を帝位につける。これが献帝。年は九歳。永漢と改元を行なう。董卓はみずから太尉となり、楊彪が司空に、黄琬が司徒になる。十一月、董卓はみずから相国となり、十二月、黄琬が太尉に、楊彪が司徒に、荀爽が司空になる。十二月、年号を中平六年にもどす。この歳、董卓に反対して、袁紹・廬植・袁術・曹操らが都を離れ、それぞれの根拠地にもどって実力を養う。
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200庚辰建安五年曹操は劉備を伐って下邳をおとし、関羽をとりこにする。劉備は袁紹のもとに身を寄せる。やがて劉備は、袁紹のもとを離れ、汝南へゆく。四月、孫策が丹徒において刺客のために殺される。後事を弟の孫権に託す。曹操は、上表をして、孫権を討虜将軍に任ずる。十月、袁紹の軍は、曹操の攻撃を受けて壊滅する。この歳、鄭玄が死ぬ(127~)。
201辛巳建安六年曹操は汝南の劉備を攻め、敗れた劉備は劉表のもとに身を寄せる。この歳、譙周が生れる(~270)。趙岐が死亡する。
202壬午建安七年五月、袁紹が死去。曹操はその息子の袁譚と袁尚を攻める。この歳、于寘国から象が献上される。姜維が生れる(~264)。
203癸未建安八年袁譚と袁尚が仲たがいをし、互いに攻撃しあう。袁譚は曹操の援助を求める。八月、曹操は劉表を攻め、西平まで軍を進める。孫権は黄祖を討伐し、その帰途、豫章郡を平定する。
204甲申建安九年八月、曹操は袁尚を破り、冀州を平らげる。公孫度が死去し、息子の公孫康があとをつぐ。
205乙酉建安十年正月、曹操は袁譚を青州で破って、これを斬り、河北の袁氏の故地を手中に収め、その地の名士たち、陳琳・元瑀らを配下におさめる。四月、黒山の賊の張燕らが曹操に降伏する。
206丙戌建安十一年三月、曹操は高幹を破り、幷州を平定する。この歳、済北・北海・阜陵・下邳・常山・甘陵・済陰・平原の八国が廃止される。
207丁亥建安十二年八月、曹操は烏丸討伐のため柳城へ兵を進め、白狼山において勝利を収め、蹋頓を斬る。九月、公孫康が袁尚・袁煕の首を斬って、曹操にさし出す。この歳、劉備は、襄陽の隆中に諸葛亮をたずねて、彼をみずからのブレインに加える。長く南匈奴にとらわれていた蔡琰(蔡文姫)が中原にもどってくる。
208戊子建安十三年孫権は、黄祖を破ってその首を斬る。六月、三公の制度をやめ、丞相と御史大夫との官を復活し、曹操みずからが丞相となる。八月、孔融が曹操の意に逆らって死刑に処せられる。曹操は、七月に軍をおこして南征し、劉表を攻めていたが、八月、劉表が死亡すると、その息子の劉琦と劉琮とが反目し、劉琮は、荆州を挙げて曹操に降る。劉備は、荆州より逃亡し、当陽の長坂で敗北を喫しながら、夏口にたどりつく。そこで呉の使者の魯粛と会い、呉と協力関係を結ぶ。劉備の使者として諸葛亮が柴桑におもむき、孫権と会見する。曹操は呉に書翰をおくって降服をすすめる。張昭らが曹操への帰順を主張するが、孫権は、魯粛・周瑜らの意見を用いて抗戦を決意。周瑜は、赤壁において曹操の軍を破る。曹操は、江陵・襄陽に兵を留めて北にもどる。周瑜・程普らが、江陵を守る魏の曹仁を攻める。十二月、孫権は、みずから合肥を包囲し、張昭には九江の当塗を攻撃させたが、戦果なし。
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