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お洒落でスマートな焼畑農業のことではありません。
文化をメディアのネタとして消費し尽くしてしまうやり口のことです。
大学村スノビズムの興亡
でも日本ではそう簡単にはいかない。たとえばオペラなんて流行じゃないよ、今はもう歌舞伎だよ、という風にどうしてもなってしまう。情報が咀嚼に先行し、感覚が認識に先行し、批評が想像に先行している。それが悪いとは言わないけれど、正直言って疲れる。僕はそういう先端的波乗り競争にはもともとあまり関わってこなかった人間だけれど、でもそういう風に神経症的に生きている人々の姿を遠くから見ているだけでもけっこう疲れる。これはまったくのところ文化的焼畑農業である。みんなで寄ってたかってひとつの畑を焼き尽くすと次の畑に行く。あとにはしばらくは草も生えない。本来なら豊かで自然な創造的才能を持っているはずの創作者が、時間をかけてゆっくりと自分の創作システムの足元を掘り下げていかなくてはならないはずの人間が、焼かれずに生き残るということだけを念頭に置いて、あるいはただ単に傍目によく映ることだけを考えて活動し生きていかなくてはならない。これを文化的消耗と言わずしていったい何と言えばいいのか。
そういうことを考えると、保守的だろうが、制度的だろうが、階級的だろうが、このプリンストン村みたいに「とにかくここはこうしておけば」というのがあれば、日本の文化人だってずいぶん楽だろうにと思う。末端のあたりは適当に型通りにすませておいて、そのあとは自分の好きなことを自分の好きなペースでやれるわけだから。
村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫