松尾芭蕉略年譜

松尾芭蕉略年譜

阿部喜三男『松尾芭蕉』吉川弘文館 人物叢書 をもとに作成。

備考欄は 児玉幸多『日本史年表・地図』吉川弘文館 をもとに適宜追加。

年次西暦年齢事蹟備考
元和 九1623  徳川家光参内、将軍宣下
正保 元16441伊賀上野赤坂に出生。父は松尾与左衛門。兄一人(半左衛門)姉一人、妹三人貞徳『天水抄』成る
慶安 四1651  徳川家綱。由井正雪の乱
明暦 二165613二月一八日父死亡。この頃は上野の藤堂新七郎家の嗣子良忠(俳号蝉吟)に仕えていたと思われる。 
寛文 四166421この年刊の『佐夜中山集』(重頼編)に松尾宗房の名で二句見えるのが、彼の句で出版俳書に載った最初のものである 
  五166522蝉吟発句の貞徳一三回忌追善の百韻中に宗房の付句一八が見える 
  六166623四月蝉吟死亡。六月、芭蕉は使者としてその位牌を高野山報恩院に納めた。(その後故郷を出奔して京都で学問修行などをしたいわれるが、必ずしも離郷したのではない) 
  七166724季吟編『続山の井』に伊賀上野宗房として発句二八、付句三入集 
寛文一二167229正月二五日上野の天満宮に発句合『貝おほひ』奉納(東下後江戸で出版)光圀が彰考館を開く
   ○春(一説に九月)江戸へ下る。まず小沢卜尺をたよったといわれる(異説あり) 
延宝 三167532夏、東下中の西山宗因の俳席に列し、桃青の号で付句八入る『談林十百韻』刊
  四167633春、信章(素堂)と天満宮奉納の両吟二百韻あり(出版の時『江戸両吟集』と題する) 
   ○六月、帰郷、七月また江戸へ来る(猶子桃印を同伴したと思われる) 
  五167734内藤風虎主催『六百番誹諧発句合』に松尾桃青として二〇句載る西鶴独吟千六百句興行
  六167835歳且帳を出したらしい 
   ○春、信章・信徳とともに百韻二巻を作り、前年冬に作った一巻と合わせて、三月『江戸三吟』として出版した 
   ○一〇月、十八番句合に判詞を書き、坐興庵桃青と署名し、素宣の印を用いた 
   ○この年の前後数年、神田上水の事に関連したようである 
  七167936四月成『富士石』(調和編)に、桃青万句によせた等躬の句あり、このころすでに宗匠になっていたことがわかる。また、下郷家蔵『俳諧名簿』に「松尾宗房入道」とあり、当時すでに剃髪していたらしい 
  八168037四月、『桃青門弟独吟二十歌仙』出版綱吉将軍となる
   ○九月、『俳諧合』出版(其角の「田舎之句合」と杉風の「常磐屋之句合」に芭蕉が判詞をつけたもの。栩々斎・華桃園の別号が見える) 
   ○冬、深川の芭蕉庵に入る 
天和 元168138六月成『東日記』(言水編)に「枯枝に」など発句一五入集 
   ○七月、『俳諧次韻』出版。このころから蕉風の端緒が見られる
  二168239三月刊『武蔵曲』(千春編)にはじめて芭蕉翁の号が見える西山宗因死亡(年七八)
   ○一二月二八日、芭蕉庵類焼、高山麋塒をたより甲斐の谷村に避難した○西鶴『好色一代男』刊
  三168340五月、江戸に帰る 
   ○同月、其角編『虚栗』成り「芭蕉洞桃青鼓舞書」として跋文を書く 
   ○六月二〇日、郷里で母死亡 
   ○冬ころ、知人・門人により芭蕉庵が再建された 
貞享 元168441八月、門人千里を伴い旅に出、伊勢を経て九月帰郷。それより吉野をめぐり、初冬熱田に入り、名古屋に至って『冬の日』(七部集の一)が出来る六月、西鶴二万三千五百句独吟
   ○一二月、再び帰郷する 
  二168542二月、故郷から奈良を経て京に出、約一ヵ月京および湖南周辺におり、三月末熱田に出、四月一〇日鳴海の知足方を発足して、甲斐を経て、同月末江戸深川に帰る。以上九ヵ月にわたる旅の紀行が『野ざらし紀行』(または甲子紀行)である 
   ○六月二日尾花沢の清風を迎えて、江戸小石川で古式の百韻を作った 
  三168643正月、其角らと初懐紙の百韻あり、前半の五十韻に注を加えた 
   ○春、芭蕉庵にて「古池や」の句あり、閏三月『蛙合』(仙化編)が出版された 
   ○秋、去来の『伊勢紀行』に跋の句文を与えた 
   ○八月下旬、荷兮編『春の日』(七部集の二)が出版された 
  四186744春、去来江戸に来て芭蕉を訪う生類憐令が出る
   ○秋、俳文「蓑虫説跋」がある 
   ○八月、曾良・宋波を伴ない鹿島・潮来に遊ぶ。この紀行を『鹿島紀行』(または鹿島詣)という 
   ○九月、内藤露沾邸にて芭蕉の帰郷について餞別会があり、一〇月には其角方でも送別句会があった 
   ○同月、『続の原』(不卜編)に句合の判詞と跋を書いた 
   ○一〇月二五日江戸を立ち、鳴海の知足を訪れ、そこから越人を伴ない、保美の杜国を見舞い、また鳴海に帰り、さらに熱田・名古屋を経て、一二月に帰郷した 
元禄 元168845二月、伊勢参宮。そこで杜国にあう西鶴『日本永代蔵』刊
   ○同月一八日、故郷の亡父三十回忌に列席。このころ伊賀の新大仏寺を訪ねたり、故主蝉吟の遺子探丸に招かれたりする。三月一九日、万菊丸(杜国)を伴ない故郷を立ち、吉野・高野山・和歌浦・奈良を経て大阪に出で、須磨・明石に遊んで、四月二三日京に入る。前年冬江戸を立ってからこの入京前までの紀行を『笈の小文』(または卯辰紀行)という 
   ○京都で杜国と分かれたのち、湖南に移り、六月ころ美濃に下り、大垣・岐阜の諸家を訪問。七・八月鳴海・名古屋辺に居り、八月中旬越人を伴って出発。信州更科の月を見、善光寺に参詣、月末江戸に帰った。この紀行を『更科紀行』という 
   ○九月一〇日、素堂方で残菊の会、同一三日夜、芭蕉庵に月見の宴を催した 
   ○冬、深川八貧の句文があった 
  二168946三月、荷兮編『曠野』(七部集の三)に序を書き、下旬、曾良を伴ない奥の細道の旅に出る。季吟幕府に召される 
   四月一日日光、五月一日福島。千代・松島・平泉等を経て、六月一日新庄。羽黒山・酒田・象潟をめぐり、七月二日新潟。七月十五日金沢。山中で曾良と別れ、松岡まで北枝同行。福井より等栽同行して、八月一四日厚賀。そこで路通に迎えられ、月末大垣に入り、そこより伊勢におもむく。 
   九月下旬故郷に帰り、一一月末、路通を伴ない奈良を経て京に出る。京・湖辺にとどまり、膳所で越年する 
  三169047正月故郷に帰り、三月ころまで滞在し、それから膳所に出、四月幻住庵に移った。このころ「幻住庵記」を作る 
   ○七月、珍磧編『ひさご』(七部集の四)出版。一一月ころ一時帰郷したが、また大津に出、乙州方で越年した 
  四196148春は帰郷したり大津辺にいたりし、夏は四月一八日から五月四日まで嵯峨の落柿舎に滞在した。この間の日記が嵯峨日記である熊沢蕃山没(七三歳)
   ○七月、去来・凡兆編『猿蓑』(七部集の五)出版 
   ○仲秋、大津の無名庵で月見の会があった 
   ○九月下旬、湖南を出発して帰東の途につき、桃隣・支考を伴ない、一〇月末(一説に一一月一日)三年ぶりで江戸に帰る。このころ橘町の彦右衛門方に仮寓した 
  五169249二月「栖去之弁」を書く前句付流行
   ○五月、杉風らの世話で新築された芭蕉庵に入る○光圀が正成の碑を湊川に建てる。
   ○秋、「芭蕉を移す詞」を作る。「芭蕉庵三日月日記」成る 
   ○八月、許六入門 
   ○九月、珍磧(洒堂)来り、翌春まで芭蕉庵に滞在する 
  六169350二月、呂丸客死の報来る西鶴死亡(五二歳)
   ○春、猶子桃印が芭蕉庵で死亡する 
   ○五月、許六帰国(柴門辞等) 
   ○秋、一時閉関する(閉関之説) 
   ○八月二七日、松倉嵐蘭死亡(悼嵐蘭) 
   ○同二九日、其角の父東順死亡(東順伝) 
   ○一〇月九日、素堂方で残菊の宴があった 
  七169451五月、次郎兵衛を伴ない江戸を立ち、島田・鳴海・名古屋を経て帰郷其角編『枯尾花』刊
   ○閏五月、大和・加茂を経て湖南に出、下旬より京に出、六月初旬は落柿舎に居った 
   ○六月、寿貞死亡 
   ○野坡ら編『炭俵』(七部集の六)出版 
   ○七月、盆会のため帰郷、約二ヵ月滞在。この間、新庵で月見、また支考と『続猿蓑』(七部集の七)編集の相談をした 
   ○九月八日、支考・惟然・次郎兵衛・又右衛門を伴ない故郷を出、奈良を経て大阪へ出る。同日二九日より激しい下痢を催して病臥 
   ○一〇月五日、南御堂前に移る 
   ○同一二日、其角・去来らの門人に囲まれて、死亡した。(生前の遺言により大津義仲寺に葬る)