清明節

清明節

幽蘭居士東京夢華録 巻七

清明節

 清明節。都では普通に冬至から百五日目が「大寒食*1」である。その前日は「炊熟*2」といい、この日には小麦粉で棗食固*3の飛燕を作り、柳の枝にさし通して門楣に挿しておく。これを「子推燕*4」という。成年に達した子供は、たいていこの日に髪上げ*5をする。

 寒食節の三日目は、すなわち「清明」の日である。すべて新しい墓には、みなこの日にお参りをして掃除する習わしなので、都城の人びとは郊外へ出かける。禁中からは、半月前に宮女の車馬がさし遣わされて御陵に参詣し、皇族がたや御親族も、それぞれ御陵や祖先の墓に使いをやってお祀りをされる。その供人は、みな紫の上衣に白絹の三角子*6・青い脚絆といういでたちで、すべてお上からのお仕着せである。清明節の当日にも、禁中からは車馬をさし立てて、奉先寺*7と道者院に参詣の儀があり、また亡くなっった宮女たちの墓参がとり行われるが、その車馬はすべて黄金の飾りに紺のとばり*8、錦の額(もこう)に珠の簾(みす)、ぬいとりの団扇を両側から差しかけ、うすぎぬを張った提灯*9が行列の前駆をする。紳士も庶民も墓参りに出かけるため都の門は人で塞がりそうな有様になる。どこの紙馬鋪*10でも、紙の張りぼて細工で楼閣の格好を作ったのを通り道で売り出す。

 四方の郊外は市場のように賑やかになり、花の咲いた木の下や、別荘の庭園の中では、杯盤をならべて、酒盃のやりとりが始まり、都の歌姫や舞妓はどこの庭園や亭(あずまや)にもたくさんつめかけ、日暮れになるまで帰らない。帰るときには、それぞれ棗食固や炊餅、泥人形*11や棹刀*12のおもちゃ、美しい花に珍しい果物、山亭*13のおもちゃ、家鴨の卵*14、雞の雛などを携えて帰る。こう言った品物を「門外土儀」という。乗物の轎子には、柳の枝や色々な花の束でその屋根の上を飾りたて、それが四方に垂れて揺曳する。

 この日から三日間*15は、みなこうして場外へ出かけて墓参りをするのだが、百五日目が一番盛んである。その清明節の当日になると、町々では水飴、麦糕*16・乳酪*17・乳餅*18などの類が売り出される。緩やかに都門に入れば、夕日を受けた御所柳。酔うて家の庭に帰りくれば、名月のもとに梨の花。諸軍と禁衛軍は、それぞれ隊伍を整えて、馬にまたがり楽を奏しつつ市中行進をやる。これを「摔脚(しゅつきゃく)」という。その旗じるしは目にも鮮やかに、その軍容は勇壮に、人馬は凛々しく、これまた一つの見ものである。

孟元老『東京夢華録』東洋文庫 平凡社

*1:「歳時雑記」には、民間では百四日目に禁火して(厨房の火を落として炊事を止める)、それを「私寒食」または「大寒食」というとあり、ここの記載よりも一日早いが、同書にはまた、百五日目の大寒食を「官寒食」ともいうと述べているから(『歳時広記』巻十五に引く。以下同じ)、それは公私によるちがいである。また百六日目を「小寒食」ともいう。寒食とは、火を禁じた三日間、冷たいものを食べることから出た言葉。金盈之『酔翁談録』巻三に詳しい。

*2:「歳時雑記」にいう。冬至から百三日目が「炊食熱」である。まもなく炊事を止めるから、あらかじめこの日に煮炊きを済ませておくのであると。上記の『酔翁談録』も同じ。」

*3:巻二「東角楼の町々」の章の注(7)参照。

*4:子推は春秋時代の文公に仕えた介子推。のちに山に隠れて出でず、遂に文公に山を焼かれて焚死したという。寒食禁火の風習の起りを介子推に因縁づけるのは、古くからの伝説である。重沢俊郎の「介子推」(『中華六十名家言行録』所収、一九四八年、弘文堂)・守屋美都雄他訳注『荆楚歳時記』参照

*5:原文「上頭」。『輟耕録』巻一四では女子の場合だけの用語としているが、実は南北朝時代以来、男子の成年式をも「上頭」ということは、『通俗編』巻九や『竇存』巻四に指摘する通りである。上句の「子女」を学津討原本が「女子」と改めていることは、いわれなきことである。

*6:未詳。あとの金明池での演技の章に見える「角子」は幞頭の脚(えい)のことであるが、ここのはそれとは無関係であろう。

*7:金明池の西にあり、亡くなった宮女の墓地があった寺(『宋会要』道釈二―一一・『夷堅志補』巻九・『汴京遺蹟志』巻一〇)。正しくは奉先資福禅院という(黄庭堅の「宋室公寿挽詞」の注に引く「東京記」と『事物紀原』巻七)。またその境内の慶基殿には宣祖の像を、重徽殿には明徳太后と章穆皇后の像が祀ってあった(『春明退朝録』巻上)。なおこの禅院の位置を、上記の「東京記」では明義坊としている。道者院は巻六に既出。なお巻八「中元節」の章の末尾を見よ。

*8:原文「紺幰」。『事物紀原』巻三の幰弩の条に、「幰とは車上に張る繒(うすぎぬ)なり」と注してある。宋の柳永の「木蘭花慢」詞にも、清明節を詠じて「彫りのある鞍の馬を驟(はし)らせ、紺幰もて郊垌に出づ」といっている(『楽章集』)。

*9:うす絹の覆いで囲った提灯。これを携えてゆくのは、帰りが日暮れになるからである。

*10:季節の行事や祭礼に用いる紙画(巻二「宣徳楼の前の役所と寺院」の章の注(12)参照)を版画に刷って売る店。「馬」の語義については、巻一〇「十二月」の章の注(9)参照。張りぼての楼閣は墓前で焼くためのもの。北京図書館蔵『文選五臣注』(南宋刊本)の刊記に、「杭州猫児橋河東岸開牋紙馬鋪鍾家印行」とあり、紙馬鋪は書籍の出版もやったことが分る。

*11:原文「黄胖」。「迎春黄胖(こうはん)」ともいい(『龐元英談叢』)、「遊春黄胖」ともいう(『白獺髄』)。黄土を捏ねて作った泥人形。『通俗編』巻三一の「泥孩児」の条参照。楊万里の「三月三日、忠襄の墳に上る」という七絶十首の第七首にこの人形を詠じて「粉捏の孫児は活きて真に逼り、像生(つくりもの)の果子は更に時新(はしり)」(『誠斎集』巻三一)とあるが、「粉にて捏ねたる」とあれば、粘土でなくて米粉か麪を練ったものであろう。

*12:巻五「盛り場の演芸」の章の注(9)参照。

*13:未詳。明代編纂の短編小説集『警世通言』に、宋代の物語の「万秀娘報仇山亭児」という一篇があり、そのなかに、くず買いが山亭を買う一段がある。その厳敦易氏の注(一九五六年、作家出版社、五六九ページ)には「泥で作った風景や建築物などの小さな玩具の総称」といっている。

*14:古く『鄴中記』に、寒食の日には家鴨の卵に色を塗ったのを贈りあうとあり、隋の『玉燭宝典』には画卵を闘わせる遊びのことを載せている。唐宋でも『景竜文館記』や『文昌雑録』によれば、やはり寒食の贈り物として綵雞子(画卵)や鏤雞子(彫飾した卵)があった。なお守屋他訳注『荆楚歳時記』参照。次の「雞の雛」も玩具のそれである。

*15:原文「自此三日」。これでは意味が通じない。注(2)に引いた「歳時雑記」には、百三日目の炊食熱のことを述べたあと、「従此三日、無燂湯之具也」(この日から三日間は煮炊きの道具は使わない)と続く。つまりここの「此」は百三日目の意に読み替えるべきである。

*16:麦糕は『武林旧事』巻六の糕の条にも出ているが、未詳。なお、米と大麦と飴とで作った麦粥も、古くから寒食の日の食品であった。守屋他訳注前掲書参照。

*17:『歳時広記』にはここを引用して「乳粥酪」としている。牛や馬の乳を醗酵させて作る飲料。おそらく契丹人の食品である酪粥または牛粥に近いものであろう。松井等「契丹人の衣食住」(『満鮮地理歴史研究報告』九)参照。

*18:牛乳を煮沸して醋を加え、固まったのを布で包んで重しをかけ、塩をまぜて貯蔵したもの。乳腐ともいう。今日でもこの食品は一般に用いられている。