燗ビール

燗ビール

Ⅶ ロシアの蒸し風呂


 市場での一番の楽しみはなんと言ってもシャシリックとビールだ。シャシリックを2、3本買い、そばの出店でビールを注文する。注文するといってもモスクワと同じジグリョーフスクビールしかなかっった。ビールを1本、と頼んだところ、聞いたこともないすごい返事が返って来て、仰天してしまった。冷たいのか、お燗をしたのか、と聞かれたのだ。一瞬耳を疑った。見ると、ビールの入っているバケツから湯気が立っているではないか! これにはほんとに驚いた。

 もちろん燗ビールを頼んだ。お燗したビールが飲めるなんて一生に一度あるかないかだ。平たく四角いウズペック帽を被ったいかついおやじが、汚れて黒ずんだ手で、湯気の立つバケツからビールを取り出すと、やおら栓抜きを右手に持ち、それから栓をぱっと飛ばすや、びんを持っていた左手の親指を電光石火の早業でびんの口に移動させた。一滴も漏らさずに塞いでしまったのだ。汚れて黒ずんだその親指がやたらと目に焼きついた。だがもう遅い。それに一生に一度のチャンスを逃してはならない。こちらも差し出されたビールびんを慎重に受け取りながら、その親指がどけられる瞬間を待って、ぱっとこれまたおやじに負けないくらいの早業でびんの口を自分の親指で押さえた。さあ、それからが困った。どうしたらいいのかわからないのだ。下手に親指を外せばビールが吹き出てしまう。やむなく、親指を外した瞬間に今度は口で素早く塞いだ。温かいビールが口の中にほとばしり出た…。おかしくておもしろくて、まあ、それにおやじの親指も少しはきれいになっただろうと、あと1本注文した。ビールの熱燗をやったあとの気持ちは妙なものだった。腹がぱんぱんになり、体がほてってウォッカをやったような酔いを感じた。しかし、あれ以後一度もビールをお燗しようと思ったことはない。

 今もウズベキスタンで熱燗のビールをやっているのだろうか。やっていると信じたい。あれはあれですばらしかった。一生忘れることのない思い出だ。

 こう書いてから、あっ、そうかとЯndexで「中央アジア、燗ビール」《Срёдняя Азия подогретое пйво》を検索にかけてみた。あった! ノヴォシビルスクの学生洞窟探検クラブの一員が書いた手記が載っていた。これによると1986年彼らはトルクメニスタンに向かう途中タシケント駅広場で熱燗ビールに出会っているのだ。「駅前広場ではできたての新鮮なビールとお燗をしたビールが売られていた。そう、そうなのだ! まさにお燗しただ! 鉄製の樽の下にはこんろが置いてあった。意外だったのは、熱いビールも捨てたものではなかったことだ。それは冷たいビールとはまったく違う飲み物だった…」

 ほっとして嬉しくなった。やはり存続していたのだ。中央アジアに行かれる方はぜひ熱燗ビールを試していただきたい。ところで、熱燗のビールと熱燗のウォッカを合わせたカクテルはかなりいけるんじゃないだろうか?!

狩野亨『ほろ酔い加減のロシア』ユーラシア・ブックレット p48-

田螺殿 田螺殿

 私は此の歌を、戦争中赤坂の花柳界で覚えた。海軍少尉に任官、東京在勤を命ぜられてゐた一時期(昭和十八年後半)、同期の連中と、わたりのついた小待合へ上りこみ、分不相応な、その代りままごと遊びのやうな茶屋遊びを、何度か経験した。日本酒なぞ中々出してもらへず、徳利に入れてあつためたビールを燗酒のつもりでちびちび飲んで酔った気分になる、そんな宴席

阿川弘之『エレガントな象』文春文庫