王陽明年譜

王陽明年譜

王陽明 溝口雄三役『伝習録』中公クラシックス

巻末より作成。

西暦元号年齢事 跡
1472成化八年一歳九月三十日、余姚(浙江)に王華(字は徳輝、海日翁または竜山公と称さる)の長男として生まれる。母は鄭氏。祖父天叙(竹軒と号す)、祖母岑も健在であった。
1481成化十七年十歳父王華、進士に合格。
1482成化十八年十一歳父にともなわれて京師に寓す。性格は豪邁不羈であったという。
1484成化二十年十三歳母鄭氏卒す。
1488弘治元年十七歳七月、夫人諸氏を洪都(南昌)に迎える。
1489弘治二年十八歳洪都より余姚に帰る途中、広信上饒で婁一斎に会い、宋学について教えを受ける。これより心機一転して聖学への意を固める。
1492弘治五年二十一歳浙江郷試にあげられる。ただこの頃、朱子の遺書を読み、格物に精進するが、見るべき成化がなく、ついに病にかかる。
1493弘治六年二十二歳科挙の試験に落第する。
1496弘治九年二十五歳科挙の試験に落第する。
1497弘治十年二十六歳京師にあり、国境地帯の軍事情勢急を告げると聞き、兵法に興味を抱き、兵書を読みふける。
1498弘治十一年二十七歳京師にあり、朱子の書を読み、改めて格物に専念するが、物の理とわが心が一致しないことに苦しみ、疾が再発し、聖人たらんことをあきらめて、道教の養生説に心を傾ける。
1499弘治十二年二十八歳進士出身に挙げられる。「辺務八事」をたてまつる。
1501弘治十四年三十歳命を奉じて江北地方の司法行政を視察し、いくたの冤囚をすくう。九華山に遊ぶ。

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1502弘治十五年三十一歳病のため越に帰り、室を陽明洞中に築き、道教の養生法を行なったり、仏僧と対談したりするが、ようやく道教と仏教のまちがいに気づいてくる。
1504弘治十七年三十三歳京師にあり。翰林院庶吉士の任にあった湛甘泉と一見して知己となり、ともに聖学を明らかにすることを誓い合う。この頃から陽明の切実な学風をしたって、入門するものがあらわれ始める。五月孝宗没し、武宗即位す。武宗は、明代における最も暗愚な天子といわれる。
1506正徳元年三十五歳武宗の初政にあたり、宦官劉瑾の専横を憂えた載銑・薄彦徽等は相ついで武宗を諫めるが、かえって投獄される。陽明も、その不当を抗弁する疎をたてまつったために投獄され、廷杖四十を加えられ、貴州竜場駅に流されることとなる。
1507正徳二年三十六歳夏、配所におもむかんとして銭塘に至る。妹婿徐愛入門す。
1508正徳三年三十七歳春、竜場に着く。文化果つる山中で、言葉も通じない素撲な土民の生活になじみつつ、従来の人生観や価値観を根本から問い直す。得失栄辱は超脱し得たが、生死の一念が心頭から去らぬため、石墎(つちへんに郭)のなかに端座し、精神の統一をはかる。こうして、「聖人の道はわが本性に充足しているのだ。従来、理を事物に求めたのは、まちがいであった」と気づき、朱子学適格物論を超克する方向を見出す。その考えを五経に照応して間違いなしとし、『五経臆説』をあらわす(序文とごく一部分のみ現存)。なま木を組み合わせて、粗末ながらも竜岡書院その他の施設を作り、教育の場とする。

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1509正徳四年三十八歳提学副使席書、陽明を招聘して貴陽書院をつかさどらせる。この年、初めて知行合一を論じ、陽明学の基礎が固まってきたことを示す。十一月末、廬陵知県に任命するとの知らせが届く。
1510正徳五年三十九歳三月、廬陵県に着任。この頃、主として静座による心の収斂を説いているが、それは仏教の座禅入定と同一ではないとことわっている。十一月、入覲、三年ぶりに湛甘泉に会い、旧交を温める。十二月、南京刑部四川清吏司主事に任ぜられる。劉瑾誅せらる。
1511正徳六年四十歳正月、吏部験封清吏司主事に解任される。門人の間に、朱子と陸象山の優劣が問題となるにつき、「朱子と陸象山とは、その学び方にちがいはあっても、要するに聖人の徒たるにかわりはない」との断案を下す。これは結果的には、象山をもち上げる効果をもたらし、朱子学者の非議を招くこととなる。湛甘泉の安南に使するを送り、「別湛甘泉序」を書き、独自の異端論を展開する。
1512正徳七年四十一歳十二月、南京太僕寺少卿に承認す。赴任の途中、一旦帰省するが、その道中、同舟の徐愛と『大学』の宗旨を論ずる。これが今日の『伝習録』巻上に相当する。徐愛の序によれば、初めて陽明の説を聞いた時には、余りにも従来の学説と異なるので、驚いたというが、これは当時、陽明の教えに接したものの大半が抱いた偽らざる感懐であろう。
1513正徳八年四十二歳門人、王純甫背き去る。ただしこの後にも書簡の往復あり、陽明はさしてとがめようとはしていない。十月、滁州(南京の北西)に到着、馬政を監督する。土地は辺鄙で公事も暇なので、景勝の地を選んでは門人と清遊する。従遊の士、ますます多くなる。
1514正徳九年四十三歳四月、東京鴻臚寺卿に任ぜられる。この頃、陽明の静座説を誤解して、いたずらに方言高論し、空虚に流入する門人の多いのを見て、教育法を改め、天理を存し人欲を去るを、省察克治の実功となすと示す。親戚の王守信の第五子正憲を嗣子とする。

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1516正徳十一年四十五歳九月、都察院左僉都御使に任ぜられ、南嶺(江西南部)におもむき、汀漳各部の匪賊を討伐することとなる。
1517正徳十二年四十六歳一月、贛に至り、十家牌法を行ない(十軒を一組とし、その家族名をかかげ、不審の者が出入りした時は直ちに役所に届けるよう共同で責任を負わせる)、スパイ行為を禁絶して、翌月、匪賊を平らげる。四月、軍隊を返す。この陣中より、ある門人にあてた手簡の中に、「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」の語を述べる。十月、横水・桶岡の匪賊を平らげ、十二月、軍隊をかえす。
1518正徳十三年四十七歳一月、三浰(広東東北)を制し、四月、軍隊をかえす。五月徐愛卒す(三十一歳)。七月、『朱子晩年定論』を出版し、また『古本大学』を刻す。八月、薛侃、虔州にて初めて『伝習録』を刻す(原稿本の巻上にあたる)。十月、祖母岑卒す(九十九歳)。この頃、祖母と老父の安否を案じ、また自らも隊長すぐれず、たびたび解任を乞うも許されず。
1519正徳十四年四十八歳六月、勅命を奉じ、福建の叛軍を平らげようと豊城まで進んだ時、寧王宸濠謀反すと聞き、直ちに吉安に引き返し、義兵を起こす。それより十日足らずの間に、宸濠を生擒にし、江西を平らげる。八月、武宗の親征せんとするを聞き、「親征を諫むるの疎」をたてまつるが、結局、武宗は大兵を率いて南下する。九月、陽明は宸濠及び俘虜を政府軍に渡し、杭州に帰り浄慈寺で病を養う。十一月、江西巡撫に任ぜられ、江西にかえる。
1520正徳十五年四十九歳君側の奸臣張忠・許秦等、陽明に叛意ありと諫言したため、やむなく九華山に入り、毎日草庵に宴坐する。六月、贛におもむく途中、泰和にて朱子学系の学者羅整庵の問に答える。のち整庵への返事は、『伝習録』巻中におさめられる。九月、南昌に帰る。玉心斎が入門する。「陸象山文集序」を書き、陸象山の学徳を顕彰する。

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1521正徳十六年五十歳この前後より、「致良知」の教えをかかげる。竜場で知行合一を覚醒して以来、二十余年の苦辛の結晶が、この三字に凝縮されたわけである。三月、武宗卒し、世宗即位す。六月、南京兵部尚書に任ぜられ、十二月には、新建伯をおくられる。その間、一旦余姚に帰郷するが、銭緒山・王竜渓はじめ入門者相継ぐ。銭・王二氏は陽明門下の重鎮となる。
1522嘉靖元年五十一歳一月、宸濠の平定に功労あった将卒の論功行賞不徹底なるをもって、封爵を辞退するが、許されず。二月十二日、父海日翁死す(七十歳)。この頃、良知を信ずることますます篤く、郷愿の気持ちを捨て去ったという。七月、再び封爵を辞するも許されず。異学を唱うるを以て、弾劾せらる。
1513嘉靖二年五十二歳この頃、肺患が再発したのか、しきりに痰咳に悩まされるが、陽明をしたう門人はますます多く、日ごと百余人がその居宅に会したという。
1524嘉靖三年五十三歳一月、かつて陽明が会試の試験官をつとめた時、選抜した南大吉が入門する。稽山書院を設け、各地より集い来る三百人の門生を収容する。八月中秋の夜、自宅近くの碧霞池畔の天泉橋に、百余人の門人を集め、放歌高吟して楽しむ。十月、南大吉、『伝習録』を続刻す。陽明より十四歳年長の董蘿石(すなわち従吾道人)入門し、世人を驚かす。
1525嘉靖四年五十四歳一月、妻に死別する。この年、「親民堂記」「稽山書院尊経閤記」など、陽明晩年の到達点を示す重要な文を撰す。特に「顧東橋に答えるの書」は、『伝習録』巻中におさめられ、いわゆる「抜本塞源論」と称されて多くの士人の心を激発した。越城の西に陽明書院を建てる。この頃、董蘿石に伴われて、禅僧玉芝聚が来学する。
1526嘉靖五年五十五歳この頃、咳の発作をしきりに訴える反面、良知を信ずることいよいよ篤きを告白する。王竜渓と銭緒山、廷試を受けないで帰郷する。陽明笑ってこれを迎える。十一月十七日、継室に正億生まる。「老年にして子を得るは、実に望外に出(い)ず」と喜ぶ。

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1527嘉靖六年五十六歳四月、門人鄒東廓、『陽明文録』を広徳州で刻す。五月、都察院左部御吏に任ぜられ、思恩・田州(広西)の匪賊平定を命ぜられる。気候風土悪く、体力も衰弱せるため辞退したが許されず。九月八日、出陣の時にあたり、銭緒山と王竜渓、良知の性格について陽明の判断を乞う。徳洪の四有説は中下以下のためのもの、竜渓の四無説は上根のためのもの、両者相まって功夫の完璧が期せられるのだと示す。ただ良知説のもつこの二重性格が、陽明没後、学派分裂の一大根因となったことは疑えない。陽明の留守中は、徳洪と竜渓が書院を経営する。南下の途中、陽明は同志に示していう、「良知の功夫は、いよいよ真切なればいよいよ簡易、いよいよ簡易なればいよいよ真切なり」と。
1528嘉靖七年五十七歳二月、思恩・田州の賊を平らげ、学校を興し、帰順した人民を撫育する。咳と下痢とがはげしく、視力・聴力ともに衰え、帰心矢の如きものあるも、朝命下らず、やむなく舟によって北帰せんとする。十一月二十九日、安南の舟中にて没す。
1529嘉靖八年 十一月、越城郊洪渓に遺骸を葬る
伝習録 (中公クラシックス)

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