釈迢空年譜

釈迢空年譜

『日本の詩歌11』中央公論社

元号西暦年齢年譜
明治二十年一八八七年一歳二月十一日、大阪府西成郡木津村二百三十四番屋敷(現大阪市浪速区鷗町一丁目)に生れる。父、折口(おりくち)秀太郎、母、こうの四男。本名、信夫(しのぶ)。家業は生薬・雑貨商で、医師を兼ねた。
明治三十二年一八九九年十三歳育英高等小学校を卒業、大阪府第五中学校(後に天王寺中学校)へ入学。同級に武田祐吉、西田直二郎、岩橋小弥太がいた。体格は貧弱で、気はやさしいが、情熱的なところがあった。
明治三四年一九〇一年十五歳兄、進の影響を受け、「新小説」「文庫」等の文芸雑誌のほか「明星」「心の花」等を読む。投稿した短歌一首ずつが、服部躬治(文庫)、佐佐木信綱(新小説)の選に入る。
明治三十五年一九〇二年十六歳五月、父秀太郎急逝する。学業成績、このころより落ちる。
明治三十六年一九〇三年十七歳同級の武田祐吉らが作っていた短歌の会、鳳鳴会に加わり、回覧雑誌「ふししば」に短歌を載せる。
明治三十七年一九〇四年十八歳三月、英語・数学・物理等に欠点を取り、卒業試験に落第。
明治三十八年一九〇五年十九歳三月、天王寺中学校卒業。九月、国学院の大学部予科に入る。上京、麹町三番町の仏教家藤無染の下宿に同居する。
明治四十年一九〇七年二十一歳歌人服部躬治を訪れ入門したが、一度批評を受けただけで終る。与謝野寛に教えを乞おうとして、門前まで行きやめる。
明治四十二年一九〇九年二十三歳十月、「毎日電報」の劇評の懸賞募集に「封印切漫評」を投稿し、一等に当選。十一月、東京根岸短歌会に出席、伊藤左千夫、古泉千樫らを知る。旋頭歌七首「アララギ」に載る。
明治四十三年一九一〇年二十四歳七月、国学院大学国文科卒業、大阪へ帰る。九月、関西同人の根岸短歌会に出席。このころより、釈迢空の号を用いる。
明治四十四年一九一一年二十五歳十月、大阪府立今宮中学校の教員となる。
明治四十五(大正元)年一九一二年二十六歳八月、生徒二人をつれ、志摩・熊野を廻って大阪へ帰る。この間の短歌をまとめ「安乗帖」と名づけた。
大正二年一九一三年二十七歳八月、生徒を伴い九州・四国旅行。九月、小説「口笛」を執筆。十二月、雑誌「郷土研究」に「三郷巷談」を投稿、柳田国男に認められて、以後師事するようになる。
大正三年一九一四年二十八歳三月、職を辞し上京。鈴木金太郎・萩原雄祐ら今宮中学の教え子十数人と、本郷赤門前の昌平館に下宿する。国学院時代の師、金沢庄三郎の「中国語読本」の編纂を手伝う。
大正四年一九一五年二十九歳三月、過労のために神経衰弱と糖尿病を併発、教科書編纂の仕事を辞す。十月、小石川金富町に移った鈴木金太郎の下宿に身を寄せる。「アララギ」十月号に、「切火評論」、十二月号に「雲母集細見」載る。
大正五年一九一六年三十歳一月、武田祐吉のすすめにより、万葉集の口訳に着手、三月で巻十九まで訳了。九月、国文口訳叢書の第三篇として、『万葉集』上巻出版。国学院大学内に郷土研究会を設立する。
大正六年一九一七年三十一歳一月、郁文館中学校教員となる。二月、アララギ同人となり選歌欄を担当。五月、『万葉集』中巻・下巻出版。六月、井上哲学堂内の鑚仰軒に移る。九月、九州旅行、郁文館退職。
大正七年一九一八年三十二歳一月、小田原に下宿して、神奈川県足柄下郡史編纂に従事。二月、母こう逝去。八月、雑誌「土俗と伝説」を編集発行。
大正八年一九一九年三十三歳一月、国学院大学講師となる。『万葉集辞典』出版。六月、豊多摩郡大久保町西大久保の借家に移る。
大正九年一九二〇年三十四歳七月、民俗研究のため信州・遠州・三河の国境の山村を歩く。
大正十年一九二一年三十五歳七月・八月、沖縄へ民俗採集旅行。帰途、壱岐に渡る。
大正十一年一九二二年三十六歳四月、国学院大学教授となる。雑誌「白鳥」を創刊する。十二月、下谷区清水町に転居。
大正十二年一九二三年三十七歳六月、慶應義塾大学文学部講師。七月、八月、沖縄より宮古・八重山を経て台湾に至る。十二月、渋谷町羽沢に転居。
大正十三年一九二四年三十八歳四月、雑誌「日光」創刊、同人となる。八月、壱岐旅行。
大正十四年一九二五年三十九歳五月、『海やまのあひだ』を改造社より出版。
大正十五年一九二六年四十歳一月、信州新野の雪祭、三河の花祭を見学。
昭和三年一九二八年四十二歳四月、慶應義塾大学文学教授。十月、品川区大井出石町に転居。国学院大学の学生藤井春洋を同居させる。
昭和四年一九二九年四十三歳四月、『古代研究』民俗学篇1,および国文学篇出版
昭和五年一九三〇年四十四歳一月、歌集『春のことぶれ』を梓書房より出版。六月、『古代研究』民俗学篇2、出版。八月、東北の各地を旅行する。
昭和七年一九三二年四十六歳三月、文学博士となる。八月、九州、九月、東北を旅行。
昭和十年一九三五年四十九歳七月、信州小谷温泉に赴く。十二月中旬、藤井春洋を伴い沖縄旅行に出発、翌十一年一月二十三日に帰る。
昭和十四年一九三九年五十三歳一月、小説「死者の書」を「日本評論」に発表、三月号まで連載。四月、箱根仙石原に山荘、叢隠居を建てる。
昭和十六年一九四一年五十五歳八月、中国に渡り、各地の出征部隊を訪れ学術講演を行う。
昭和十八年一九四三年五十七歳四月、大日本芸能学会を設立、会長となる。九月、藤井春洋、応召する。十月、『死者の書』を青磁社より出版。
昭和十九年一九四四年五十八歳三月、『日本芸能史六講』出版。四月、慶應義塾大学語学研究所第一部長。七月、出征中の藤井春洋を養嗣子として入籍。
昭和二十年一九四五年五十九歳三月、発行直前の『古代感愛集』、戦火のため焼失。八月十五日、終戦の詔を聞き、直ちに家を出て箱根の山荘に籠る。
昭和二十二年一九四七年六十一歳三月、『古代感愛集』を改訂出版。八月、『日本雑歌集』、十月、『日本文学の発生 序説』、十二月、『迢空歌選』出版。
昭和二十三年一九四八年六十二歳一月、四国旅行。歌集『水の上』出版。三月、歌集『遠やまひこ』出版。五月、『古代感愛集』により芸術院賞を受ける。
昭和二四年一九四九年六十三歳七月、能登一の宮に、戦死した春洋と自分の墓碑を建てる。
昭和二十五年一九五〇年六十四歳一月、宮中御歌会の選者となる。二月、『日本文学啓蒙』出版。十月、柳田国男に従い、伊勢および大和へ旅行。
昭和二十七年一九五二年六十六歳八月、角川書店より『古代感愛集』『近代悲傷集』出版。
昭和二十八年一九五三年六十七歳二月、『かぶき讃』出版。七月初旬より、箱根山荘に滞在。八月下旬、身体衰弱し幻覚生じる。東京へ帰り、三十一日、慶応病院に入院。胃癌と診断。九月三日午後一時十一分逝去。
昭和二十九年一九五四年 十月、中央公論社より『折口信夫全集』全三十二巻を刊行。三十二年四月に完結、日本芸術院恩賜賞を受賞。

   加藤守雄

『日本の詩歌11』中央公論社

釈迢空