重陽

重陽

幽蘭居士東京夢華録 巻六

重陽

 九月の重陽の節句には、都では菊見をする。数種類あって、黄白色で蘂が蓮の苞のようなのを万齢菊*1といい、とき色のを桃花菊といい、白くて蘂が薄い代赭色のを木香菊といい、黄色で円いのを金鈴菊といい、純白で大きなのを喜容菊*2といい、菊のない所とてない。酒店ではみな菊の花を飾りつけて洞戸*3を作る。

 市民は多く郊外へ出掛けて、高みに登る。例えば倉王廟*4・四里橋・愁台*5・梁王城*6・硯台*7・毛駝岡*8・独楽岡などで、それぞれ宴を張る。

 一両日前に、それぞれ小麦粉で糕を蒸して贈り物にするが、その上には色絹で作った小旗を挿し、石榴の実や粟の実や銀杏や松の実などの木の実をちりばめる。また小麦粉で獅子と蛮王の形を作って、それを糕の上に置いたのを獅蛮糕という*9

 諸禅寺では、それぞれ法要が行われる。とくに開宝寺と仁王寺では獅子会が催され、僧侶たちはみな獅子座*10の上に坐って法要説法をやるので、ことに盛んな御参りである。

 下旬になると、お供え用の着物や靴や席帽*11や反物を売り出すが、これは十月一日の墓参りに焼いて供えるからである。

孟元老著 入矢義高・梅原郁訳注『東京夢華録』東洋文庫598 平凡社

 九月 附 重九*12

 月日は梭の飛ぶように過ぎ、あっという間に重九を迎える。九は陽の数で、日と月が九に呼応しているから重陽という次第である。この日、晋の孟嘉は竜山に登って帽が脱げ*13、陶淵明は東の籬に向って菊を賞翫した話*14はよく知られている。近頃の人々は、菊の花と茱萸を酒盃に浮かべて飲む*15。茱萸は「辟邪の翁」、菊花は「延寿の客」といわれるため、この二つを飲んで、陽九の厄を祓おうとするわけである。

 一年の慣わしとして、宮中と上流の家々では、いずこもこの日菊をめでられる。士庶の家々でもやはり一、二株を求めて玩賞する。菊といえば、その種類は七、八十もある*16。香りがよく長もちし、わけても優品は次のような花である。黄白色で蕊が蓮の苞の形は「万齢菊」といわれる。薄紅色は「桃花菊」、白で中心が代赭色の「木香菊」、純白で大輪の「喜容菊」、黄色で円い「金鈴菊」、白色で、大きな中心が黄金の「金盞銀台菊」などである。ここにあげたものは、もとよりとりわけ愛らしいものに他ならない。

 さらにまた、この日、都の店々では、糖麺、蒸糕*17の上に、猪や羊の肉、鴨子などを千切りにしてのせ、色絹で作った小旗を立てて「重陽糕」と名づける。大奥の部屋同士や上流の家々ではそれを贈りあう。蜜煎局は、五色の米粉で獅子と蛮王を作り、小さな綵旗で飾り立て、下には蒸した栗や肉杵*18をこまかく刻み、麝香と糖蜜を入れて混ぜ、こねて餅糕の小さな段としたり、あるいは五色の弾児のようにする。みな韻果*19、糖霜をいれ、これを獅蛮栗糕と呼び、お客にすすめて酒を出し、季節の流れに応じる。

 その日、すべての寺院では、僧侶に供応する。さき頃、東都の開封では、開宝寺、仁王寺で獅子会が催された。諸仏、菩薩は獅子に乗っておられるから、僧たちもやはり獅子の上に坐って仏事をとり行なう。杭州ではこの会はみられない。

呉自牧 梅原郁訳注『夢粱録』1 東洋文庫674 平凡社

*1:以下四種の菊の名は、劉蒙と范成大の『菊譜』にも出ている。ただ万齢菊は万鈴菊と書いてある。

*2:史正志の『菊譜』に「添色喜容」と称しているものと同じであろう。

*3:いくつもの部屋が洞門のように奥へ連なって続いているもの。当時の酒店には屋号の下に「洞」を附けたのが見られる。仙洞になぞらえたのである。

*4:巻六の終章参照。次の四里橋もすでに同章に出たが未詳。

*5:未詳。ただ『北道刊誤志』によると、大梁の故城の西北に魏王の愁思台があるとあり、あるいはこれのことであろうか。『新五代史』の元行欽伝に見える愁台とは別であろう。

*6:未詳。ただ『北道刊誤志』に、吹台や崇台など、漢の梁孝王が築いたと伝えられる古蹟が記載されているから、この梁王城もおそらくその一類であろう。

*7:下の独楽岡とともに巻六の終章に既出。

*8:正しくは牟駝岡。汴京の西北五十里のところにあり、宮中御料の牧場があった。以上、九月九日重陽の節句に高みに上るのは厄を除けるための慣習であるこというまでもなかろう。

*9:「歳時雑記」にはさらに具体的な説明があるから引いておく。「市民は重陽になると、酒や果物や糕などを嫁の実家や知友に贈るが、それには菊の花を挿し、石榴と粟の実を散らしたり、二、三寸の小さな赤旗を挿したり、また文殊菩薩を乗せた獅子を蛮人が牽いている土人形をその上に置いたりして贈る(以上は金盈之の『酔翁談録』巻四もほとんど同文)。糕にはたいてい棗を使うが、栗や肉を入れるのもあり、麪糕・黄米糕・花糕などの種類がある」。

*10:獅子座は『法華経』見宝塔品に見えるそれのように元来は仏の座所のことであるが、ここはおそらく僧が仏になり代わって獅子吼の説法をする法座のことで、その作りは普通の蓮華座であっただろう。

*11:唐代の席帽は帷帽のことで、革で作り、縁に紗の巾をとりつけて肩まで蔽うものであった。(入谷義高『寒山』七七ページ参照)。しかし、ここのはおそらく籐か藁で編んだ帽子であろう。

*12:『東』巻八の「重陽」とかなりの部分が重なる。ただ本書には重九の慣習の一つである「登高」(丘などの高い場所にあがる)がなく、『東』では菊と茱萸などの記事がない。

*13:『晋書』巻九八の孟嘉伝に次のような話がのせられている。桓温が九月九日、荆州の竜山で幕僚たちを集めて宴を張った。一陣の風で嘉の帽が飛んだが彼は気がつかぬ。嘉が厠に立った隙に、温はその席に帽とからかいの文章を置いた。戻った嘉は即座に応酬の文を作り、その美事さに満座がうなった。

*14:『続晋陽秋』(『宋書』巻九三、隠逸)にある話。酒好きの陶淵明は貧しくてそれが手に入らぬ。九月九日、仕方なく菊を籬からとって来て嘆息していた。そこへ江州太守王宏が酒を送ってきてくれた。この話を詠んだ詩人は多いが、陶淵明の「採菊東籬下、悠然見南山」と、蘇東坡の一句をあげておく。「白衣送酒舞淵明、漫繞東籬嗅落英」(白衣酒を送り淵明を舞わせ、漫として東籬を繞り、落英を嗅ぐ)。

*15:菊花は芳香とともに長寿の花であることは古来かわらない。『続斉諧記』にみえる汝南の桓景が九月九日、費長房の予言通り、茱萸を絳い袋にいれ、高い所に登って、菊酒を飲み、禍を避けた話は有名。茱萸はミカン科の小高木ゴシュユ。赤い小粒の実に異臭があってそれが厄除けと結びつく。日本のグミではない。茱萸と重陽の関係については、『歳時広記』巻三四にいくつかの故事がのせられている。

*16:菊の栽培が本格化し、種類が増加するのは唐代なかばからで、南宋時代には一つのピークに達する。劉蒙、范成大、史正志らの『菊譜』が流布し、その品種も百五十に達する。ここに書かれている品種の多くは『東』にもすでに見える有名なもの。

*17:この蒸したこなもちの種類などについては、やはり『歳時広記』巻三四に列挙されている。また『東』訳注二九四頁注(9)を参照。本書の説明は例によってゴタゴタしているが、『武』巻三の「重九」では以下のように書かれている。「且つ各々菊糕を以って饋と為す。糖肉秫麺雑糅」を以ってこれを為る。上に肉糸鴨餅を縷し、綴るに榴顆を以ってし、標するに綵旗を以ってす。また蛮王獅子を上に作る。また栗を糜して屑と為し、合するに蜂蜜を以ってし、印花脱餅、以って果餌と為す。また蘇子を以って微に梅滷に漬け、蔗霜梨橙玉榴の小顆を雑和し、名づけて春蘭秋菊という」。

*18:普通は男(牡)の性器のことだが、ここもそうかどうか不詳。

*19:本書には韻果という用語が頻出する。幾つか果物を列挙して諸色韻果というところからみると、果物の美称かと思われる。なお周煇の『青波雑志』巻六に、「然らば韻の字けだし説あり。宣和の間、衣着は韻纈といい、果実は韻梅といい、詞曲は韻令という」といっているのが参考になる。

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