蜀犬 日に吠ゆ

1901-01-06

[][]一月六日 キリスト教が真に命ずるところに従って生きることは はてなブックマーク - 一月六日 キリスト教が真に命ずるところに従って生きることは - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

 キリスト教が真に命ずるところに従って生きることは、あまりにも困難であり、むしろ全く不可能だという見解が、かなり一般にひろまっている。もしそれが真実なら、教会の目的、または政治上の目的のためにただ「形式的」に、そんな宗教を守りつづけるよりも、むしろ捨ててしまった方がよいであろう。もちろん、もしもキリスト自身がこの地上に再臨されることがあれば、おそらく最初の時と同じように、「全エルサレム」がひどく駭するであろう(マタイによる福音書二の三、七の二八)。けれども、上のような見解が、キリスト教を本当に生涯自分のものとした人たちによってかつて抱かれ、また公言されたとは、信じられない。そういう人の場合は、信仰生活の美しさと偉大さが、それにともなう困難にはるかに立ちまさるからである。この生活は、はじめはいくぶん押しきって試みることも必要であるが、進むにつれてそうでなくなる。むしろ、それは狭くともごく平坦な道であって、そこには多くの憩いの場や開かれた門があるものだ。

 今日、「山上の説教」と呼ばれて、その概要だけが伝えられている聖句を、一度注意ぶかく読んでみなさい。そして、あなたもその教えに驚嘆するか、それとも、それらすべてをいわゆる「理想的」な命令(すなわち理想的な意味に受けとり理解するが、実行するには及ばぬもの)と考えるかを検討しなさい。あなたが内的に進歩するかどうかは、この検討とその答え次第である。これらすべての教えが守れるようにと、少なくとも強く願わないなら、キリスト教はあなたにとって全く無縁であり、むしろなにか教会制度なり哲学なりで満足するほかはない。

 もしも神が実在せず、ただダーウィンの意味での自然史的世界秩序と、人間同士の単なる「生存競争」と、社会的にも「実利政治」としかこの世に無いならば、山上の説教に従って生活の規則を立てたり、それを自分ひとりで守ろうとするのは、たしかに愚の骨頂であろう。しかし、神が実在して、その命令に忠実に従うときは神の祝福が与えられ、さもなければ与えられないということであれば、事情はちがってくる。幸い、これはだれもがためしてみることができる。頭から信じてかかる必要はない。いずれ近いうちに、すでに唯物主義に嫌気がさした多くの人びとによって、それはためされるであろう。

 ヨハネによる福音書七の一六・一七・四六、八の一二・四七。


 あなたが福音書のこのような章句を囚われずに読むならば、キリスト教は、精神的にこの教えを理解する力がなかった数世紀の間に積みこまれた、皮相な教会万能主義のかさばった積荷から解放されて、それぞれの個人によって全く新しく始められねばならぬという考えを持つであろう。

 ある人たちは、市民権の剥奪をもって強制されない今では、キリスト教への服従をあからさまに拒むであろうが、しかし他の人びとはキリスト教のもつ内的卓越性のゆえに、ますます深い信頼をもって堅くこれに心をささげるであろう――このような時代がいまや近づいている。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫