蜀犬 日に吠ゆ

1901-01-15

[][]一月十五日 神学も、学問としてならば はてなブックマーク - 一月十五日 神学も、学問としてならば - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

 神学も、学問としてならば、おだやかに尊敬するがよい。神学はほかの科学とひとしく価値あるものである。しかしそれ以上ではない。あなたの内的生活にとって、そのような知識は必要でない。このことをキリストみずからが語っていられる。ヨハネによる福音書三の三―一二、ルカによる福音書一〇の二一―二三。

 教会の最高位者から宣教師やディアコニッセ(奉仕女)や慈悲の友の会修道女にいたるまで、およそ聖職にある人たちを評価する場合、われわれ平信徒にとって主として標準となるのは、彼らが次のような偉大な宗教的能力のいずれかを備えているかどうかである――すなわち慰めの力、効果ある祈り(ヨハネによる福音書一五の七)、病気の治療(マルコによる福音書三の一五・一六・一七・一八)、罪のゆるし(マタイによる福音書一八の一八、ヨハネによる福音書二〇の二三)、預言の能力、一層正確にいえば現在と未来に対する正しい洞察力、いいかえれば真理のみ霊(たま)を宿しているかどうかということである。ヨハネによる福音書一七の一七、ヨハネ第一の手紙五の二〇。少なくとも、以上の諸能力のいくらかを備えていると認められないような聖職者のどんな指導にもあなたは信頼してはならない。

 すべてその他のこと、たとえば神学的博識、教会への熱心、説教の才能、その他のあらゆることも、ただ第二義的なものにすぎず、ときには、上に述べたような能力を受けるのに、妨げとなることさえある。上述の諸能力は学んで得られるものではなく、まして、なんらかの聖職授与式によって与えられるものでもない。それは神の直接のおゆるしによるのであって、これは昔も今も変らないし、また、どんな教団においても可能なことである。

 これらの能力が聖職者たちに必ずしも十分に備わっていないとすれば、それは聖職者階級自身の責任である。彼らはときとして、人類に対する意義と感化力とを失うこともあるが、その真の理由は、このような能力を欠如するからにほかならない。

 ルカによる福音書一〇の二一、一一の五二。


 民数記二六の六一、レビ記一〇の一―三*1、ペテロの第一の手紙四の一七*2。このようなことは、今日でも聖職者たちに起っている。彼らは、彼らに託された神の言葉を、ただ職業的に、それとも政治的あるいは教会の目的のために宣べ伝えるのみで、彼らに負わされた任務のようには説かない。その直接の結果は、彼ら自身の霊的生活の破滅である。

 もちろん、いつの時代にも、またどの民族にも、自己と世界との縁を絶ち、自分自身のためには何の願望をも持たず、ひたすら正しい道で人を助けるためにのみ生きる幾多の人がいる。これこそ真の「聖職者」である。もし聖職者でありながらこのような特質を備えていないなら、ほとんど値打がない。あなたが自分をそのような真の聖職者の一人だと思うことができるなら、それをたとえ王冠とでもとり替えてはならない。ともあれ、今日でもそのような心構えで頭に戴くときにのみ、王冠もいくばくかの価値を持つのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫

*1:レビ記「……ナダブとアビウとは、……異火(ことび)を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし……。」

*2:ペテロ第一の手紙「さばきが神の家から始められる時がきた……」