蜀犬 日に吠ゆ

1901-01-26

[][]一月二十六日 マタイによる福音書二〇のキリストの言葉は はてなブックマーク - 一月二十六日 マタイによる福音書二〇のキリストの言葉は - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

一月二十六日

 マタイによる福音書二〇の二五―二八*1のキリストの言葉は、最善の人たちでさえ、辛うじて、しかも多くの苦い経験をへたのちに初めて、納得することができる。なぜなら、こういう人たちでも、いつも他人に仕えてばかりいるのをよろこばず、また自分の生活の楽しみを控え目に静かにしようなどとは思わないからだ。預言者イザヤの「正しい者が滅びても、心にとめる人がない」(同五七の一)という言葉も、彼らにはほとんど神に対する冒瀆としか考えられない。このことを十分に自覚していられたはずのキリストでさえ、たいていの人が彼にあまり好意や理解を持ちそうもない使命の重荷を担うことは、時おり明らかに容易でなかった。いずれにしても、慰め、治療、ゆるしなどののような特別な「能力」(これは昔と同じく今もなおありうる)は、それを奉仕のために用うる意志がないのに、授けられるものだと考えてはならない。これこそ、今日の教会や宗教団体の上にたつ多くの人たちが、あまりにも力を失ったことの隠れた原因である。このような力は、それを正しく用いようと心がける人びとには、つねに備えられてあるものだ。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫

*1:「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」