蜀犬 日に吠ゆ

1901-02-02

[][]二月二日 「神の怒り」は、ただキリストの はてなブックマーク - 二月二日 「神の怒り」は、ただキリストの - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

二月二日

 「神の怒り」は、ただキリストの受難と死によって、いわばその血によってのみ鎮められたという教会の教理は、私には十分納得できないものであった。神がそのような怒りをわれわれに対して抱いていたとすれば、この救い主を決して送ってよこされなかったであろう。神がこれを送られたということに、すでにゆるしがふくまれている。実際キリストはこの世でただ急いで苦しみをうけ、そして死なねばならなかったばかりでなく、なおその前に生活をされて、サドカイ人の現世的信仰やパリサイ人の教会主義では行えないような良い生活ができることを、またどうすればそれができるかを教えなければならなかった。この点を、すなわち、このような生活を、われわれはキリストにならうべきであり、また同時に、われわれの負うべき苦難と試煉の分け前を忍耐をもって受けとり、彼に従ってそれにうち勝たねばならない。

 実際にわれらの主の生涯がそうであったし、また、人間生活のあらゆる時と場所においてまさにそうあるべき、このような模範的生涯も、あのような死と復活という終幕がなかったならば、たしかに完全なものではなかったであろう。これは、教理論をまつまでもなく、健全な常識と心理学でも分かることである。キリストがあの最大のわざを行い、最大の苦難に堪えねばならなかったのは、われわれが出会うはるかに小さな事柄にわれわれも同じように行いかつ堪えることができること、そしてどうすればそれができるかを、教えまた実行させるためであった。まして、今やわれわれは、自分自身の力のほかに、多くの人々を助けて苦難や死にうち勝たせ給うたキリストの力と約束とが与えられているのだから、それは一層容易になしとげられる。しかしながら、キリストの犠牲の死がひとりでにわれわれを浄めるわけではない。それは洗礼の水と同様である。われわれのためになされた犠牲を感謝をもってお受けすること、そしてその当然の結果として、キリストと神とを愛するようになることがわれわれを浄化するのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫