蜀犬 日に吠ゆ

1901-10-22

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眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

 ヨハネによる福音書四の二四、六の六五、九の三九、一四の六*1について。われわれは、この世の生活では、神が何であるかを知ることができない、同様に、キリストや聖霊が何であるかも知ることができない。これについて教理問答書や教理教本に書いてあるすべてのことは、要するに、多少とも正しい構成力を持った人間の観念の所産にすぎない。それゆえ、多くの人びとは、彼らより毛すじほども多くは知っていない教会の教師のだれかれの見解を聞いてもよく理解できないので、神やキリストや聖霊の存在のことなど放り出さざるをえなかった。もしわれわれが神の確かな存在について、われわれ自身の経験を持っていなければ、そのような人間的な教条についての死んだ教会的信仰以外のものを持つことはできないだろう。実際、いつの時代にも、多くの人びとの信仰はそのようなものであったし、今もなおそうである。


 そのような信仰で満足したくなければ、キリストの言葉から出発して、キリストがこれらの超自然的なものについて考えたとおりの、また、考えてもらいたがった通りの見解に到達しようと努め、それに固く頼らねばならない。それはとにかくとして、多くの人びとの安心のためにつけ加えると、「信仰告白」のなかの教会の公式的な言葉は、およそそのような公式で表現しうる程度には真理に近いものであり、従ってそれに頼っていれば全くの邪路に進むことはないが、それから外(そ)れる場合は危険な道に陥り、とうてい一般的承認を得るわけにはいかないのである。


 聖霊は、その他の点ではまことにすぐれた多くのキリスト者にとっても、まだなじめないものであり、いくらか怖い、ほとんど不気味なものではあるが、これはつねに見張りをおこたらぬ生きた真理の霊であって、真実あるがままに人間や事物を見るものである。すべての人間関係にまつわる全くの嘘、あるいは半ばの虚偽から脱け出るために、われわれはこの霊を授かれねばならない。

 しかし、この霊を宿した人のうちで、それがどんな実を結ぶかについて、あなたみずからがパウロのガラテヤ人への手紙五の二二*2を参照し、それにしたがって、この霊があなたや他の人の内にすでに宿っているかどうかを、容易に判断することができる。そして、たとえその霊の宿りが、まだ十分強くないか、あるいは弱いかであっても、やはりそのために、あなたはすでに「神の子」であり、確かな善い道を歩いているのである。そのことを使徒は、同じ手紙三の二六*3で、欠点の多いガラテヤ人たちに向ってのべている。それはわれわれにとっても、心が弱まった時の大きな慰めである。


 多くの不幸な人びとは、彼らが「救われ」ているかどうかについて、いろいろと無益な考えにふけるが、こういう考えは、自信過剰の場合と同じように、有害なものである。しかも、そのような不安は、ときどき、無思慮で熱心すぎる懺悔説教師によって、また聖書や教理問答書の個々の章句の誤解によって、一層強められることがある。

 この点について聖書に記されている最も確かな言葉は、すでにたびたび述べたように、ヨハネによる福音書六の三七*4、およびマタイによる福音書一一の二八*5にふくまれている。この場合、誠実に求める者には、いかなる例外もない。もしもキリストの言葉(他の人の言葉ではない、使徒や預言者の言葉でさえ無条件ではない)を完全に理解し、それに完全に同意し、自分のうちにそれに対する反抗心をすこしも感じなければ、これが自然の感情にとって、最も確実な救いの目印である。なおその上に、キリストをそのすべての行いや言葉において、あらゆる他の歴史的現象よりもよく理解することができ、また、すべてのキリストの弟子やそのあとの教父たち、すべての古典作家や古代の偉人たち、中世の神秘家や宗教改革者、あるいは近代の哲学者や神学者などよりも、キリストをよりよく理解しうるような境地へも到ることができる。本来、これのみが完全なキリスト教なのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫

*1ヨハネによる福音書四の二四「神は霊であるから礼拝するものは、霊とまことをもって礼拝すべきである」。六の六五「それだから父が与えて下さった者でなければわたしに来ることはできないと言ったのである」。九の三九「わたしがこの世にきたのはさばくためである。すなわち見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。一四の六「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないで、父のみもとに行くことはできない」。

*2:「しかし御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であっって、これらを否定する律法はない。」

*3:「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」

*4:「父がわたしに与えて下さった者は皆、わたしに来るであろう。そしてわたしに来る者を決して拒みはしない。」

*5:「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」