蜀犬 日に吠ゆ

1901-11-01

[][]十一月一日 死の観念は、若い人たちにとっては はてなブックマーク - 十一月一日 死の観念は、若い人たちにとっては - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

 死の観念は、若い人たちにとってはたいてい恐ろしいものではあるが、正常の状態にあり、また、良心の不安がこれに加わらなければ、死ぬ確かさが増すにつれて、こわさは失われてゆくものである。

 その場合、死ぬことは、毎日の眠りと目覚めの過程とあまり本質的な違いのない、一つの大きな経過的事象だと思われる。なるほどわれわれは、この過程そのものについては信頼できる報告を一つも持たないが、それは眠りに入る過程をだれも正確に思い浮べることができないのと同じである。しかし、近代の有名な作家(トルストイ)は死が近づいてくる時の実感について次のように語っているが、これは他の多くの人たちの経験とも一致する。「私は、これまで死や生に関連して抱いていた観念から、ますます遠ざかって行った。死は私にとって怖しさを失い、私は死が生のエピソードの一つであり、生は死によって終るものでないという認識に日ごとに近づいた。ついに、死を忍耐づよく、いや、むしろ喜びをもって待ち望むという境地に達した。彼岸において継続される生命の確信は、私の内で強固なものになったので、すべての疑いは力なく消え去った。そして、しばしば、赤ん坊の産声にも似た歓喜の叫びが私の胸からほとばしり出そうになった。かぎりない幸福感が私の魂をみたし、私は善き親友を待つように死を待ち望んだ。」

 大きな失敗をおかした時や解きがたい紛糾にまき込まれた時には、しばしば、神から賜わる死が、たしかにすべての問題を解決する唯一つのなお可能な打開策であり、また多くの憎しみと怒りをなだめることのできる調停者である。反対に、自分で「死にたがる」のは、人生の困難をのがれようとする不誠実な手段である。それは、下手で不正直な賭博者がトランプのカードやチェスの駒をかきまぜるのと似ている。われわれがこの人生に召されたのは、それに興味がなくなったら、勝手にこの人生から出ていってよいためではなく、むしろ、神が適当な時にわれわれを呼びもどすまで、自分や他人にとって有益な生活を営むためである。

 ヨブ記五の一七―二六、同胞教会讃美歌一三二番。

 それに、自分勝手な死によって、おそらく人生は決して終ってしまったわけではなく、そのあとに別の、多分はるかに困難な生活がつづくであろう。もしそうだとすれば、どんな場合にもわれわれはこの生を勝手に断ちきることはできないのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫