蜀犬 日に吠ゆ

1901-12-23

[][]十二月二十三日 時代時代の学問的な神学と はてなブックマーク - 十二月二十三日 時代時代の学問的な神学と - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

 その時代時代の学問的な神学と、キリストが望んでいた真のキリスト教との間にはつねに差異がある。これを指示している典型的な箇所は、ヨハネによる福音書第三章である。学者のニコデモはキリストを訪ねて、たしかにまじめに「相手の好意をうるための美辞(カブタティオ・ベネヴォレンティアエ)」をならべる、つまり、今日のいわゆる相手を一応「ほめ」て、それによってこの無学者のキリストに敬意を表しておき、そのあとでなにか教訓を垂れようとの肚(はら)であった。けれども、キリストは、次のように答えて、ニコデモの教訓を簡単にさえぎった、「わたしたちは、自分で見たり聞いたりして知っていることを語っているのに、あなたがたは学んだり研究したりしたことを語っている。」これが今日もなお存在する両者の相違である。人はキリスト教を「教え」ることができない。ただキリスト教へ導き、おだやかに入門指導をすることができるだけである。それはただ相手がしだいに自分で聞いたり見たりすることができるためである。その限りでは、キリスト教は、実際、学問の性質よりは、むしろずっと秘教の性質を持っている。しかし秘教といっても、キリスト教はそのすべての部分がだれの目の前にも開かれている。それにもかかわらず、多くの人たちはそれを見ることも、把握することもできない。しかもそれは、かならずしも無学者のせいとはかぎらず、むしろその逆である。だから、キリストみずからも、神の国を幼な児のように、すなわち、さまざまの学問的研究によってではなく、固い信仰をもって受け入れない者は、どんなことがあってもそこへ入ることはできない、と言っているのである(ルカによる福音書一八の一七)。神学はなくてはならない。それがなければ非常にさしつかえるだろう。しかし、神学は決してキリスト教そのものではない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫