蜀犬 日に吠ゆ

1919-03-31

[][]三月三十一日 近づきつつある苦難の時代 はてなブックマーク - 三月三十一日 近づきつつある苦難の時代 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月三十一日

 「たとい地は変り、山は海の真中(まなか)に移るとも、われらは怖れない。一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる」(詩篇四六の二・四)

 これは、近づきつつある苦難の時代における、神を信じる者の安心感である。キリスト教がもしこのような勇気を呼び起さないなら、それはまだその生命力を十分にあらわすまでに到っていないのである。

 これはまた神の都の様(さま)でもある。(詩篇八七の三、イザヤ書一の二六、ヨハネによる福音書一四の二三、ヘブル人への手紙一一の一六*1、一二の二二)。聖アウグスティヌスは、これとは違う神の都を心に描いたが、それは世界を支配する教会として考えられたものであった。信仰の個人的な導きにまだ十分適していない人たちのために、このような神の都(教会)がこれまで存在してきたし、なお永く存在しつづけるであろう。

 その点でこれらの人たちをかき乱さないがよい。しかしあなたは、あなたに「委ねられたこと」をよろこぶがよい。テモテ第一の手紙六の二〇*2

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれてもそれを恥とはなされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」

*2:「テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして俗悪な無駄話と、偽りの『知識』による反対論を避けなさい。」

1919-03-30

[][]三月三十日 キリスト教の合理的な部分 はてなブックマーク - 三月三十日 キリスト教の合理的な部分 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月三十日

 キリスト教の合理的な部分、すなわち、理知的な普通人のだれでもがただ知性だけで理解しうる部分は、善き意志をそなえたすべての人に親しみやすいものである。なぜなら、この宗教は、すくなくともこれまで知られているどの宗教よりもすぐれており、また人間的な事柄により親切なことが、たやすく分るからである。

 これに反して、その神秘的な部分、すなわち、神と個人との内的な直接な関係になると、これは説明できないもので、ただ自己の経験によって把握するよりほかはない。ところが、このような経験は説明できないもので、ただ自己の経験によって把握するよりほかはない。ところが、このような経験は、それをもっぱら研究したり、記述したり、そればかりか、批判しようとする人たちには、決して与えられることがない。彼らのうちのだれ一人、おそらくまだそういう経験をしたものはあるまい。それだから彼らは、それを否定することも実に手軽にやれるのである。しかし彼らは、たとえば実際に神とその直接のみわざを親しく知りながら、しかもそれを否定したり批難したりするような人の場合よりも、まだしも赦されやすい。思うに、神について知りながら拒むことはきわめて重い罪であって、だからそれはすでに多くの不安な魂にとって悲哀の原因となったのである。それにくらべて、ただ内的な体験を欠くために神の否定者となった人びとには、たしかにまだ恩恵を受ける機会がのこされている。たとえそれが、この人生のあとにつづく生活で、初めて許されるかもしれないにしても。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-29

[][]三月二十九日 危険な内容をもつステッドの著書の中に はてなブックマーク - 三月二十九日 危険な内容をもつステッドの著書の中に - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月二十九日

 全体としては幾分危険な内容をもつステッド(二〇世紀初めのイギリスの著名なジャーナリスト)の注目すべきある著書の中に、次のような言葉がある、「普遍的な完全な愛というのは、神の理想だ。たとえ不倫な愛であっても、それがあなたを自己からひき出して高めるかぎり、愛のない利己的な結婚生活よりも、あなたを天国に近づけるものだ。」これははなはだ剣呑な真理であって、とうてい教会で説教するわけにはいくまいが、それにもかかわらず、このような真理を、われらの主もまた理解された通りに、理解しうる人びとにとっては、やはり一つの真理にちがいない。ルカによる福音書五の三二、七の四七*1

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」「それであなたがたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけ許された者は、少しだけしか愛さない。」

1919-03-28

[][]三月二十八日 あなたは、最後にいたるまで試煉に はてなブックマーク - 三月二十八日 あなたは、最後にいたるまで試煉に - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月二十八日

 あなたは、最後にいたるまで試煉にさらされているだろう。これは、ある時は、外部から、あなたに反対する、あるいは敵意をもつ人びとを通してなされるが、またある時は、内部から生じたりする。というのは、あなたの内部には、なおいくらか余命をたもつ昔ながらの残滓(ざんさい)が残っているからだ。このような障害をすこしも伴わないような、永続的な地上の楽園などはありえない。しかしながら、それでもなお、あらゆる敵対物にうち勝つ心の平安だの、また、暗澹とした時期にもふたたび光明が輝くまで毅然として己れをたもつ力だの、少なくとも、この闇の中で厭世的な、もしくは世界苦的な気分に身をゆだねたり、そればかりか、なんらかの仕方で妥協してその闇の側に参加したりするのを防ぐだけの力だの、そういうものは、たしかにありうるのだ。この心の平安とこの力とは、避けがたい苦難にあって、わたしたちの慰めである。あなたもそれを求めさえすれば、必ず与えられるであろう。かようなものは地上では見出しがたく、だからその意味で世界は涙の谷だというが、それは決して真実ではない。このことをふたたび多くの人に覚らせることが、いまや大いに肝要である。なぜなら、いわゆる「教養ある社会」は、ほとんどただ「生の楽しみをつくす」ことか、ペシミズムしか知らず、おまけに、時にはその両方を一緒に、または交互に、経験しているという有様だからである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-27

[][]三月二十七日 真理を永遠に疑い、問い求める人は、 はてなブックマーク - 三月二十七日 真理を永遠に疑い、問い求める人は、 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月二十七日

 レッシングが要求したような、真理を永遠に疑い、問い求める人は、たしかに、真理への正しい道にあるものとはいえない。最後には、二、三の主要な事柄がその人の固い確信となっているのでなければならない。すなわち、神が存在すること、また、「心をつくして神を愛し、自分を愛するように隣り人を愛する」こと、あるいは、救いへの導き手はキリストであって、仏陀でも、プラトンでも、カントでもないこと、これらのことはもはや疑ってはならない。ところが、あなたは、これと反対の思想を持つ新聞の論説やヘッケル流の小論文を読むやいなや、またしても右の真理を問題として取りあげようというのなら、もうこれ以上私をわずらわさずにおいてもらいたい。最も忍耐づよい人のひとりであったパウロでさえ、耳新しい説教にばかり耳をかして、なかなか堅固な心をもちえなかった、あのガラテヤ人に対して、ついに我慢しきれなかった。どこで断然、懐疑心を捨てるべきかという一つの限界を自分に課することが、今日ではなお一層必要である。若い人に対してならば、そのような真理への模索をなおしばらく大目に見ることもできようが、年をとった人に対しては、そうはいかない。なぜなら、神を見出したり、見失ったり、捨て去ったりする絶えまない心変りは、老年者においては、精神的不健康のしるしだからである。だからあなたは、主義としての懐疑家になってはならない。むしろ信頼すべき「真理のための同労者」となりなさい。(ヨハネ第三の手紙八章)

 まるで悪のためにその栄えの日が時には許されているかに見えることが、しばしば起る。私も大きな事や小さな事でこれを体験した。しかしながらこのことは、キリストのすべての弟子たちにとっては、つねに謙遜で用心深くなければならぬという一つの理由になり、また改革者や伝道者にとっては、人間に頼ってはならないという理由でこそあれ、決して懐疑主義を是認するものではない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-26

[][]三月二十六日 時おり悪の分子が善の代表者たちを攻撃し はてなブックマーク - 三月二十六日 時おり悪の分子が善の代表者たちを攻撃し - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月二十六日

 この世において、あるいは、一つの国や民族の中において、時おり悪の分子が善の代表者たちを攻撃し、彼らの針路に大きな障害を横たえることが許されるというような時代がある。もしあなたにそのような事が起ったなら、そのことは神の赦しの下にあるのだということを忘れず、だからまた落着いてそれを迎えるがよい。ただあなた自身は、どんな不正にも与しないよう気をつけなければならない。試煉がその目的を達したならば、敵は全くひとりでに沈黙してしまうのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-25

[][]三月二十五日 異常なものを見たり聞いたり はてなブックマーク - 三月二十五日 異常なものを見たり聞いたり - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 異常なものを見たり聞いたりすることについて、あなたはもっと多く知りたいと望むであろうが、私にもそれを詳しく説明することはできない。とにかく、聞くのは心で聞くのである。しかし、それはいつもきわめて明瞭な言葉であって、たいてい聖書のなかの言葉である。私はすでに十四歳の時にそれを経験したが、しかしながく中断したこともあった。異常なものを見る方は、それにくらべて晩(おそ)くやってくる。これは、その時により多少の明瞭さのちがいがあるがあるが、内的映像(イメージ)の一種の具体化である。聞くのも見るのも、理由がないわけではないが、いつも全く思いがけなくやって来る。だから、そういうことを人為的に喚び起そうとするのは、冒涜的な行いである。こういう事柄について語ることすら、私にはふさわしくないように思われるし、それを叙述しようとしても決してうまくゆかないであろう。それに、こういうことはすべて全く不必要でもある。異常なものを見たり聞いたりするのは、一つの賜物であって、それを経験した人には驚嘆すべきものであり、しかもただその当人にとってのみ意義あるもである。だから、あなたはそれについてこれ以上深く考えない方がよい。そのようなことは人生の説きがたい事柄に属するが、いわゆるアディアフォラ(どちらでもよい事)の一つでもある。固い信仰に基づいて正しく行動することの方が、はるかにまさっている。そういう立場に立っている人は、このような異常なものを必要としない。それは、全く特別な状況における、神の例外的な助けにほかならない。

 ひとが本当に神を信じ、それが単に口先きだけのことでないなら、唯物論的世界秩序においてはただ不可能としか思えない多くのことが当然のことになってくる。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-24

[][]三月二十四日 高ぶった思いをいだかず はてなブックマーク - 三月二十四日 高ぶった思いをいだかず - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 「高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい」(ローマ人への手紙一二の一六)。しかし、このきわめて真実な言葉も、なおいくらかの説明と補足が必要である。申し分なく正しい人にとっては、崇高かつ偉大なものはひとり神あるのみで、そのほかにはない。なお比較的に偉大だと思われるものがあるとすれば、それは慈愛の心によって真に浄化された人であるが、そういう人はごく少ない。だから、われらの主も、ルカによる福音書一六の一五において、「人びとの間で尊ばれるものは、神のまえでは忌みきらわれる」と言っていられる。この言葉は最初のうち、どうしてもいくぶん苛酷に聞えるであろう。現代の説教師たちも、ただごくまれにしかこの言葉を引用しない。主自身はその時代の貴人や金持のところでも、総督や王の前でも、いたるところでつねに、この言葉どおり、驚くほどの機転(タクト)をもって振舞われた(こんな機転などという言葉を主に用いてよいとすれば)。実際、このような機転は、現代の最もすぐれた牧師でさえも、富豪やごく身分の高い人を相手とする場合に、必ずしもつねに持ち合わせているわけではない。にせの高貴とは対立し、小さなものを愛し、必要ならいつも、尊大ぶった者には落ち着いて礼を失わずに対抗する、このような真の「高貴」を身につけることは、まさに人生の最もむずかしい課題の一つである。まことの人間的偉大に到達するためには、多くの謙遜と、同時にまた、自己の高い任務や使命に対する同じように多くの、固い、ゆるぎない信念とが必要である。詩篇一八の三五*1

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「あなたはその救いの盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。」

1919-03-23

[][]三月二十三日 だれでもみな自分のものとすることができる聖約 はてなブックマーク - 三月二十三日 だれでもみな自分のものとすることができる聖約 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 イザヤ書四九の一五*1は、だれでもみな自分のものとすることができる聖約であって、その人が神に対して誠実でいくらか辛抱づよければ、聖約に欺かれることはないであろう。実に多くの人びとがそれによって慰められ、また、それに助けられて生涯の苦難の時を切り抜けてきた。どうしてあなたもそうありえないことがあろうか。しかし、あなたがそれをしたくないというのなら、あなたのお気にいりの哲学者か、詩人か、それとも音楽家に、人生のあらゆる苦難の時に助けてもらうのがよい。なお一層不徹底なことは、神とスピノザやダーウィンとを、その時どきの気分に応じて、交互に信じることである。しかも、これが現代の教養ある人たちのあいだに普通見うけられる事柄である。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることはない。」

1919-03-22

[][]三月二十二日 神に導かれる人たちの はてなブックマーク - 三月二十二日 神に導かれる人たちの - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 神に導かれる人たちの一つの特色は、彼らが学ばねばならぬ幾多の事柄を、夢の中でも体験し、知りうることである。これによって彼らは、現実の生活と同じような感銘を受け、この人生経験を、たいていの場合その警告を、ほとんど現実の体験と同様に、よく記憶にとどめておくことが出来る。

 神の導きは、まことにかすかな、かつ微妙な多くの暗示から成り立っており、人が即座にそれに聴き従うなら、非常に穏やかな導きである。だが、すぐに従わなければ、警告はいくぶん厳しいものとなってくる。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-21

[][]三月二十一日 ほんのもう少しの はてなブックマーク - 三月二十一日 ほんのもう少しの - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 ほんのもう少しの辛抱だ。「光は正しい人のために現われ、喜びは心の正しいもののためにあらわれる」(詩篇九七の一一)。

 忍耐づよくあれば、たいていはほんの三日くらいですむ。忍耐がなければ、もう少し長くつづくだろう。よく堪えぬいた試煉は、もう二度とくり返す必要がない。だが、そうでない試煉はまたやって来る。そこで賢明な人は必ずこう言うにちがいない。「一度はどうしても避けられないのだから、今それを十分に、徹底的にやり抜こう。そうすれば永久にそれから自由になれるのだ。」とりわけよくないのは、神自身がついに、もはや改善の見込みのない意気地なしどもに手をかけるのをやめて、その後は彼らののぞみ通り「生の享楽をつくす」にまかせることである。そうすると、彼らは、それを「幸運をつかんだ」などと呼んだりする。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-20

[][]三月二十日 愛がなければ、この世界は はてなブックマーク - 三月二十日 愛がなければ、この世界は - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 愛がなければ、この世界は、どんなに多くの自然美や芸術や学問が存在していても、まことにみじめな、不満足なものにすぎないだろう。人間は賢明であればあるほど、ますます強くこのことを感じ、いち早くそれがわかるにちがいない。ただ愚かな者だけが、生の享楽の緑の牧場で主人顔ができる間だけ、いましばらくたのしげに駆けまわっているのだ。

 また別の種類の愚かな人は、神への愛がなくても、人間たちを、すくなくても二、三の人を「永遠に」愛し、そこに生涯の幸福を見出すことができる、と信じている。とにかく、この態度は比較的高尚な考えの人たちの陥りやすい欠点であるが、それがやや卑俗な形をとる場合ですら、この方が神の赦しを受けられやすい。ルカによる福音書七の四七*1

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」

1919-03-19

[][]三月十九日 中くらいの人生目的よりももっと はてなブックマーク - 三月十九日 中くらいの人生目的よりももっと - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 せいぜい中くらいの人生目的よりももっと高いものを追求し、しかもよくそれを達成する人がどんなに少ないかということは、まことに驚くべきことだ。一般の人が目的とするのは、家庭を築くこと、高度な生活の楽しみ、たかだか例えば職業上か政治上の成功、人なみ以上の社会的地位、などである。けれども、これらはほとんど永続的な利益を残さないものである。

 われわれはそのように教育されてきたし、教会からも学校からもはるかにそれ以上に高尚な、力づよい励ましを受けなかった、とも言えるだろう。けれども、人間はそれらのものだけで十分に満足させられるようには、作られていないのである。もし世の伝記類が、とくに、書かれている人の晩年について、もっと真実を伝えているなら、こうした事実がきわめてあからさまに認められるだろう。ところが、たいていの伝記はただ誤った興味を与えるだけだから、推薦することができない。初めからなにがなんでも讃美しようという考えから出発していない、真にすぐれた伝記がいつか世に出ることが、せつに望まれる。

 老年になると、これまで人間の努力の目標のうちの大きかったものがだんだん小さく思われ、以前は見のがしがちだったものがしだいに大きく思われてくる。神のものの見方もおそらくそうであろう。もしわれわれが、正しく進歩しながら年をとって行くならば、しだいに神のものの見方に近づくであろう。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-18

[][]三月十八日 たとえどんな種類の事柄でも はてなブックマーク - 三月十八日 たとえどんな種類の事柄でも - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 たとえどんな種類の事柄でも、そのことであなたが恐れを感じるかぎり、その事柄に関してあなたの内部にまだ欠けている何かがあるわけで、これはぜひ取りのぞかねばならない。恐れるということが、悪人やなまぬるい人間の弱みである。彼らは一生のあいだ恐れをのがれることができない。さもなければ、彼らは「光の子らより利口」(ルカによる福音書一六の八)であって、多くの点で光の子らにまさるであろう。しかし、恐れるところが悪人らの弱点であり、われわれはそれを計算に入れて決してまちがいない。そこで、ツィンツェンドルフ*1は彼の讃美歌の一つで、鋭い人間知の持主としてこう歌っている。


  神に従う生活をしない者は、

  ただ怖れにばかり支配される。


 よく観察すれば、あなたはつねにこの言葉の通りだと知るであろう。これはさかさまに言っても同じである。あまりに小心で、人間恐怖の一ぱいの信心家などというのは、およそその名にふさわしくない人だ。こういう人はまだこの世と断っていないのだから、恐怖をいだくのも当然である。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:ツィンツェンドルフ(一七〇〇―六〇)、敬虔主義的な同胞教会の設立者、「心の宗教」を提唱。

1919-03-17

[][]三月十七日 預言の能力は はてなブックマーク - 三月十七日 預言の能力は - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 預言の能力は、しっかりした信仰と結びつく場合にのみ、願わしいものとなる。そうでなければ、この能力はひとを悪に対して、あまりに臆病にしたり、弱腰にする。なぜなら、そういう場合に、この能力はただ中間の原因と結果を予見する以上には出ないからである。そこでかつて神はイザヤ書四二の一九*1において、神のしもべたちはほかの人びと以上に盲目であり、つんぼでなくてはならぬという、初めはちょっと奇妙に思われるような言葉を述べている。どんな場合でも、神のしもべたちは、何事をも、なにびとをも、恐れてはならない。もし恐れるようなら、それは彼らの最も大きな欠点であり、そのため彼らは大きな事柄に役立たぬ者となるであろう。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか、だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか、だれかわが献身者のような目しいがあるか。だれか、主のしもべのような目しいがあるか。」

1919-03-16

[][]三月十六日 道徳的世界秩序については はてなブックマーク - 三月十六日 道徳的世界秩序については - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 道徳的世界秩序については、われわれの理解のおよびがたいものがあるが、あえてその二、三の法則をあげれば、次のようなものである。

 一、悪は最初うわべだけの勝利を得て、凱歌をあげるように見えるが、やがて必ず破滅する。

 二、この世におけるまことの善は、それが十分強くなるまでは、つねに世間やそのいろいろな機関の好意や承認をうることはできないであろう。それにもかかわらず、善は活動をつづけ、そのような静かな孤立のなかで成長してゆく。だから、将来正しい働きをすべき者はだれでも、生涯に一度、いや、ときには幾度も、世間的成功を伴う生活か、まことの信仰か、そのいずれかの選択を迫られることがある。

 ヨハネによる福音書五の四四。

 三、神は比較的小さな事(神の尺度から見て)は、神のしもべ以外の人たちを用いて処理させることがある。彼らはそれを、神のしもべと同じように、いや、しばしばもっとうまくやることさえある。

 四、真に善き人が負う最大の十字架は、実はむしろ彼の弟子や信奉者である場合がある。というのは、彼らはしばしば彼を全く理解しえないからだ。かえって彼の敵は、ずっと早くから、またもっともよく、彼を判断することを知っている。つぎに、敵はまず彼を誘惑しようとする(ルカによる福音書第六章)、それが成功しないとき初めて彼を攻撃するのだ。この場合、誘惑される時の方がずっと危険な段階である。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-15

[][]三月十五日 いま私の言うことをよく聞いてもらいたい はてなブックマーク - 三月十五日 いま私の言うことをよく聞いてもらいたい - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 いま私の言うことをよく聞いてもらいたい。あなたの心のなかで、まことの善が比較的善いものの敵となるときがやってくる。これこそ人生のもっともの困難な矛盾、葛藤であって、神の特別な導きと、この場合にも基準となりうるわれらの主の規範とがなければ、とうていこれを切りぬけることはできないであろう。――われわれはすべてのことを即座に認識しようと思ってはならない。離れてみてはじめて、明らかになるのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-14

[][]三月十四日 人間は、その生まれながらの性質や身分に はてなブックマーク - 三月十四日 人間は、その生まれながらの性質や身分に - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 人間は、しばしばその生まれながらの性質や身分に従ってではなく、いや、そればかりか、自分の本来の意図に従ってでもなく、行動することがある。これまでの生涯においても、私にとって実に多くの善い事がすこしも親しくない人びとの側からなされたのに、厄介な事はかえって私の身近な人びとから生じてきた。

 このことに対して、われわれはそれをだれかの責めに帰してはならない。彼らはしばしばそうするよりほかに仕方がなかったのだし、むしろ彼らはより高い力の道具にすぎないからだ。いずれにしても、われわれの運命は彼らによって左右されはしないのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-13

[][]三月十三日 あなたは心をつくし、 はてなブックマーク - 三月十三日 あなたは心をつくし、 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記六の四・五)。これに対しあなたが、「はい、主よ、わたしはただあなたの恵みによってそうすることができます。あなたとわたしの間には、もはや何もさえぎるものがなく、わたしにはこれ以上のよろこびはありません」と、言うことができるなら、あなたはすでに人生の目的を達したのである。

 なおそのあとも、神が、もはやなんの目的もないこの人生からあなたを召さないなら、それは、あなたがまだ神に従う生活の可能性とその成果とをほかの人たちに手本として示しながら、生活するためである(ただそれを口で教えるだけではない。このためなら他にたくさん人がいる)。

 しかし「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」(マタイによる福音書二二の三九)――先のいましめに、キリストはこのいましめをつけ加えられた。あなた自身より多く愛するのではなく、また神を愛するとひとしく、でもない。隣人を神と同列に、まして神の上に、おいてはならない、たとえば、いわゆる理想主義的な、感情におぼれた多くの伝記などで、そういう書き方をしているように。そのようなやり方は、良くあるようにたんなる言葉の綾でないとすれば、むしろ病的と言ってもよいもので、決して人を真実の生活へ導くものではなくて、かえって自他双方をそこなう結果となる。

 人びとがあなたを愛するかどうかは、あなたの内的進歩にとっては、本来全くどうでもよいことだ。だからあなたは、それを熱心に求めてはならない。けれども、もしそれがあなたのために有益ならば、あるいは人間的な弱さのゆえにあなたに必要ならば、それだけに人間の愛があなたに注がれるように、神が計らってくださるであろう。

 しかしこのような愛と、名誉とを混同してはならない。このことについては、ヨハネによる福音書五の四四の、主の明白な言葉がきわめて厳しくあてはまる。あなたがかような名誉を断念して、それを神のみ手に委ねることができるならば、それはあなたと世間とをわかつ最も大きな区別とさえなるのである。

 一体、神はいかなる価値と成果とをあなたの人生に与え給うのであろうか。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(コリン人への第二の手紙一二の九)。この恵みこそ、それらにまさるものであり、およそ神のあらゆる賜物のうち最上のものである。

 この恵みは、私たちが持つような愛ではなく、この人生の勝利賞であり、授けられたものであるが、しかも私たちによって達成され、戦いとられたものである。

 ヨハネによる福音書一一の四二、同胞教会讃美歌二八二番、七三二番。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-12

[][]三月十二日 キリストがニコデモとの対話の中で はてなブックマーク - 三月十二日 キリストがニコデモとの対話の中で - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 キリストがニコデモとの対話(ヨハネによる福音書三の八*1)の中で語っているように、神の霊は思いのままの時に、思いのままのところに、風が吹くように行くのである。あなたが霊を呼びよせることはできない。霊があなたを召すのである。あなたはいつでも、そのようなお召しがあれば、一切をさしおいて直ちにそれに従う覚悟をしていなければならない。というのは、それは、夜の静かな時ばかりでなく、時には丁度多忙をきわめている瞬間にも、訪れることがあるからだ。その時こそ、「しもべはききます、お話しください」(サムエル記上三の一〇)と言うべき時であり、その度ごとに、あなたが真と善とにおいて、大きな躍進をとげる時である。これに反して、自分が勝手に行う「礼拝」は、たいていあのバールの神の預言者たちと同じような空しい結果を収めることになる(列王記上一八の二六・二七)。たとえその礼拝とともにどんな仰々しい騒ぎが行われようとも、またそのためにどんなに多くの教会や神殿や会堂(モシエー)が建築されようとも。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。」

1919-03-11

[][]三月十一日 いわゆる「近代的世界観」 はてなブックマーク - 三月十一日 いわゆる「近代的世界観」 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

三月十一日

 もし人びとが、いわゆる「近代的世界観」、正確にいえば、無神論をすてて、真のキリスト教に移ることによって、得るところがどんなに多いかを知ったならば、彼らはみなこぞってこの道を歩むようになるだろう。

 その障害となるのは、人間のある種の遺伝的要素や習慣ばかりではなく、この道に入るには、最初見ずに決心するのが必要であること*1、なおまた、キリスト教はごく不完全なその解釈と部分的に欠陥のあるその外的組織とのためにずいぶん昔から悩まされどおしであったことが、それである。キリストが望んでいた教会は、要するに、ほんの一時的に、しかも小さな集団の理解のなかでのみ、成立したにすぎない。しかし、今やわれわれは、三百余年来はじめて、広い国民層において、このようなキリスト教の真の理解にふたたびかなり近づきつつあるし、あらゆるものが日ごとにその傾向を強めるように働いている。今やすでにわれわれは、それを完成するのにまる一世紀もかかりそうな、改革運動のさなかに立っているのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

ヨハネによる福音書 20

The Gospel According to JOHN 20
イエスとトマス

29 Jesus said to him, "Thomas, because you have seen Me, you have believed. Blessed are those who have not seen and yet have believed."


29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

新共同訳『新約聖書』国際ギデオン協会

*1ヨハネによる福音書二〇の二九

1919-03-10

[][]三月十日 人びとからは はてなブックマーク - 三月十日 人びとからは - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 人びとからは決してあまり多くのものを、あなた自身のために、期待してはならない。

 経験に照してみても、われわれが人びとからなにも求めなくなると、すぐさま彼らははるかに好ましい者になる。そして彼らは、このような利己心のない愛を実に本能的に感づくのがつねである。あなた自身のためには、ひたすら神の祝福に頼るがよい。どんな人間によっても満たされぬほど、要求のとくべつ多い心をさえ、神の祝福は完全に満たすことができるものだ。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-09

[][]三月九日 たしかにいささか張り切りすぎ はてなブックマーク - 三月九日 たしかにいささか張り切りすぎ - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 たしかにいささか張り切りすぎた人間がいるもので、彼らは単純なキリスト教では満足できない。もっとも、たいていかれらはキリスト教を正しく評価しよう――完全に理解しようという骨折りをおしんでいるからにすぎないが。そこで彼らは、カトリックならば修道会や修道院に、またわれわれプロテスタントならば小会派(セクト)や小集会など、彼らのすっかりお気に入りの所を求めざるをえないし、また実際、それを見出すことも多い。だが、そのようなことは、われわれが完全に「善くなる」ためには、すこしも必要なものではない。「聖職者階級(クレールス)」、すなわち、この意味での人間のなかのエリートなどは、もともと現実に存在するものでなく、また、これまでも決して存在しなかった。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-08

[][]三月八日 神の祝福は、ただイスラエルの民に対してのみ はてなブックマーク - 三月八日 神の祝福は、ただイスラエルの民に対してのみ - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 申命記第二八章に記された神の祝福は、ただイスラエルの民に対してのみ語られたものではなかった。なるほどこの祝福は、この民の苦難の多い道において、彼らが正しい道を歩くかぎり、今日もなお彼らにともなうにちがいない。けれどもこの祝福は、だれでもこの世界における「神の民」に数えられたいと望む一人ひとりに対しても、文字どおりあてはまるものである。あなた自身があなたの幸運の鍛冶屋である。それを怠っていながら、不平を言ってはいけない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-07

[][]三月七日 たしかにキリストの見解 はてなブックマーク - 三月七日 たしかにキリストの見解 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 前日のところで述べた考えは、たしかに完全に「正統的(オーソドクス)」とはいえないし、教理問答の教えに一致するものでもない。けれども、これはたしかにキリストの見解であり、教えであって、おそらくあなたがたやすく見出せる彼の言葉の多くにおいて、確証されているものだ。そこには、人は単に信仰のみによって天の父の国に入ることができる、とは決して述べられていない。そのうえ、パウロでさえも「単に」とは言わなかった。これはルターがつけ足したものである。同じように、キリストの言葉には、主の歴史的な犠牲の死によっていまや一切が解決されたとか、それによってそれぞれの個人が、この教理を教える教会に属するかぎり、おのずから永遠の生命に入るということは、どこにも言われていない。プロテスタント教会は、キリストの犠牲という一つの意味深い事実の上に、あまりにも大きな価値を置きすぎている。たしかに人間はこの犠牲の事実を、まさに自分のこととして心から受けとり、それに自己の分を加えて、その土台の上に、力をつくして建設しつづけねばならない。ただし自己の分の足りないところは、神の恵みぶかい補いと赦しとが与えられるという慰めをつねに抱きながら。反対にカトリック教会は、ただこの教会に属することがあらゆる聖福の根拠であり、そうでなければ、あらゆる呪いの源泉だ、ということをあまりにも信じすぎている。

 キリストの本当の教えが、そのすべての部分において、もう一度、パウロ、アウグスチヌス、トマス・ア・ケンポス、ルター、カルヴァンなどに較べて、もっと重んじられるようにすること、また、各個人の現世および永遠の運命に対する厳しい自己責任の感情(これは教会のおかげで失われてしまった)を、彼らに取り戻させること、これこそいまや近づきつつある新たな宗教改革の目的であるように思われる。なるほど教会は今後も存続するであろうし、また教会みずからが主張するように、さらにローマの聖ピエトロ教会の円(まる)天井の壁に大きな金文字で記されているように、「地獄の門もこれに勝たざらん」であろう。しかし教会はみずからを改革し、その唯一の主にして師なるお方の本質と意志において、新たな存在の根拠をぜひともつかまねばなるまい。これは教会にとってなんとしてものがれえない運命である。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』

1919-03-06

[][]三月六日 あらゆる人間がその本性の中の はてなブックマーク - 三月六日 あらゆる人間がその本性の中の - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 あらゆる人間がその本性の中の動物的部分のために、またその「遺伝的負荷」のために、必ず官能的な、怒りやすい、虚栄敵で貪欲な自然的素養を身に備えている。あなたがこうした自然的素質から脱却して、その全存在が根本的な善にまで達しえないならば、どんな善行を積んでも――はっきり言い添えておくが――何か美しい結構な信条公式をどんなに信仰していても、それらはすこしも役立つものではない。

 それではまだ、この世でもあの世でも、善の王国に入るわけにはいかない。信仰はたしかにそのための一つの手段であり、そればかりか、われわれの確信に従えば、なくてはならぬ手段である。そして善行もまた、とくに旧約聖書の見解によれば、やはりそのための手段となりうる。しかしこれらは、なんとしてもまだ、肝腎な事柄そのもの、つまり、新しい人間となることでも、新しく生まれかわることでもない。だから、善行は十分にひとの心を満足せしめないし、だからまた、実際に信仰をもっていながら多くの人たちが心の落着きをえず、たえず求めつづけ、つねに嘆息をしてやまないのである。むしろ単に生まれつき善へのより強い性向を有する他の人びとの方が、彼らよりも、かえって幸福であることが少なくない。このことが今日実に多くの人たちに心の不安を与えているが、しかし彼らは、どうしてそういうことになるのか、本当にわかってはいない。われわれは目的と手段とを取りちがえてはならないのである。

 キリストに帰依することは、義しき存在へ到達するための、世にあるかぎりの実に最良の手段であると、われわれは信じている。しかしあなたの生涯の目的は、あなた自身が、あなたの最奥の本性においてキリストに似た人間に、すなわち、善良なこの世の生活でもあの世の生活でもひとしく有用な人間になることである。

 あなたは決してこのことを取りちがえてはならない。この目標に向かってまっすぐに、あなたの力のかぎりをつくして突進しなさい。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』

1919-03-05

[][]三月五日 聖書がわれわれの歴史的な神の信仰への はてなブックマーク - 三月五日 聖書がわれわれの歴史的な神の信仰への - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 聖書がわれわれの歴史的な神の信仰への基礎となっている書物だということは、いつまでも変らないであろう。従って、この神の信仰は単なる哲学的信仰にくらべてはるかに堅固であり、そして真正の、自己の体験による、直観的信仰(要するに、これこそ究極の信仰である)のために、最もよく道をきりひらくものである。聖書はまさに、このような信仰経験にふさわしいある特定の民族における、その経験の歴史である。これについて問題があるとすれば、せいぜい、なぜこの記録はそのあと書きつがれなかったか、あるいは、このような経験の継続の一種と見なしうる書物にはどんなものがあるか、ということくらいであろう。しかし、聖書を知らない人、または聖書などなくても済むとか、何かほかのもので代用できるかと考えている人は、彼自身の宗教的確信に対して、真に堅固な基礎を保持しえないであろうことは確実である。

 聖書を知るには、ときどきくり返して全部にわたって通読するのが有益である。

 聖書のための注釈書に頼るというむだな骨折りをしないがよい。本当によい注解書は出ていないし、それは必要でもない。ただし、主として旧約聖書における純然たる歴史的記述に関するかぎり別であるが、しかしそれらは決して主要なものではない。

 聖書のなかで、何が神の霊によるものであり、何が人間の解釈や添加物であるかは、あなたがこの聖なる書を誠実に読みはじめるならば、まもなく自分でわかるであろう。そのために聖書霊感説*1だの、あるいはそれに対する批判だのに、耳をかす必要は全くない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:聖所の各文書は神の霊感にもとづいて書かれた、すこしも誤りのないものだという説。テモテへの第二の手紙三の一六参照。(訳者注)

1919-03-04

[][]三月四日 たしかに、「夜はなにびとの友でもない」。 はてなブックマーク - 三月四日 たしかに、「夜はなにびとの友でもない」。 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 たしかに、「夜はなにびとの友でもない」。夜になると、眼前に立ちふさがるすべてのものが真っ黒に見え、だれの生活にも必ず伴うさまざまな困難が、興奮した精神の前に、山のようにそそり立つ。たしかに一番よいのは、一晩じゅうぐっすり眠り通して、明るい朝になって初めて目を覚ますことだ。

 けれども、それができなければ(これは、少なくともある年齢に達すれば起りがちで、それも段々ひんぱんになるだろう)、あなたは眠られぬ夜を心配とたえまない思案とについやさずに、ゆるぎない確固とした信念をうるためや、翌日ただちに実行できるような、また、ものごとを捗らせるような決心のために、利用するがよい。このためには、しばしばこころの平静と完全な体の休息とが役立つものである。

 たしかに多くの神経質な人や、また一般に不眠の人は、考えが散ってまとまらぬ悩みに陥りやすい。――彼らには、一晩じゅう「眠り通す」のが、何よりもよいことだ。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-03

[][]三月三日 思案したり、心配したりせずに はてなブックマーク - 三月三日 思案したり、心配したりせずに - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 思案したり、心配したりせずに、祈りかつ働くことが、どんな困難な状況にあっても、正しいやり方である。

 諸民族を、そのまちがった道から神への信仰へつれもどすために、苦難の時代がやって来なければならない場合に、普通神はまず幾人かの個人に苦難をなめさせ、神の助力を経験させ、そのあとで、これらの人たちがその他の人びとに向かって、自分たちの経験に基づく故に確信をもって教え説くことができるように導き給う。そうすれば、この先駆者たちは、一般の人びとの苦難の時にも勇気を失うことなく、なお救われる見込みのある者を励ますにちがいない。こうして間もなくもみ殻はよい穀粒から飛び散ってしまい、試煉は終りをつげることになる。

 現代において、このことと関連して大切なのは、美的世界観が空しいものであり、宗教から離れては道徳が成り立ちえないという確信と、歴史的な、ユダヤ教的・キリスト教的な宗教観念が真理だという確信である――ただし、この宗教観にはただある修正が必要であるが。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-02

[][]三月二日 人びとの交わりにおいては はてなブックマーク - 三月二日 人びとの交わりにおいては - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 人びとの交わりにおいては(従ってとりわけ教育の場合でも)、本当に大切なことは、相手の好意を得ることである。ところが、このことは――残念ながらこう言わねばなるまいが――実に大多数の人たちの場合、子供も大人も、未開人も文明人も、仰々しい挨拶や忠言などでよりも、むしろささやかな贈物でもする方がうまく目的を達せられる。贈物は、半ば、あるいはすっかり不和となった人たちの間でも、不思議に和解のはたらきをすることがよくあるものだ。

 贈物に一番適しないのは、花屋や温室で求めた嵩張った、したがって高価な花束である。これはすぐ萎れて、もてあましものになる。贈物として一番よいのは、もし季節がゆるすなら、自分で摘んだ野の花の小さな花束か、庭でとった一輪のばらの花か、そのほかなにか日用の品などである。まあ一度、そんなものでためしてみるがよい。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-03-01

[][]三月一日 人間の真の偉大さは はてなブックマーク - 三月一日 人間の真の偉大さは - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 人間の真の偉大さは、その人が善の完き道具、あるいは――もっと明確にいえば――彼を通して語りかつ行い給う、神の例の完き道具である、という点にある。その人がこのことを自覚すればするほど、彼はますます確実に己れの道に徹し、いよいよ多くの事をなし遂げるであろう、たとえ世間の人が全然彼を理解せず、それともただ部分的に、しかも徐々にしか、理解しない場合でも。世間の理解などは大したことではない。それどころか、非常によい働きをした人びとすらも、たいていはその死後になって初めて世間に理解されたにすぎない。生存中は、彼らの自然的人間のある性質が、その内に宿る霊的人間のはたらきを妨げることが多かったのである。

 イザヤ書四二の一―一九に語られているような完全な「神のしもべ」は、きわめてまれであって、結局のところ、ただキリストにおいてしか存在しなかった。按手礼(カトリックの祝聖別、叙品式)とか教職叙任式によって、そのような性質が授けられるなどということは、もとより真面目に論ずべきことではない。

 ヨハネによる福音書一四の六*1・一〇*2・一二・一五・一七。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

*2:「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたがたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。」