蜀犬 日に吠ゆ

1919-03-07

[][]三月七日 たしかにキリストの見解 はてなブックマーク - 三月七日 たしかにキリストの見解 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 前日のところで述べた考えは、たしかに完全に「正統的(オーソドクス)」とはいえないし、教理問答の教えに一致するものでもない。けれども、これはたしかにキリストの見解であり、教えであって、おそらくあなたがたやすく見出せる彼の言葉の多くにおいて、確証されているものだ。そこには、人は単に信仰のみによって天の父の国に入ることができる、とは決して述べられていない。そのうえ、パウロでさえも「単に」とは言わなかった。これはルターがつけ足したものである。同じように、キリストの言葉には、主の歴史的な犠牲の死によっていまや一切が解決されたとか、それによってそれぞれの個人が、この教理を教える教会に属するかぎり、おのずから永遠の生命に入るということは、どこにも言われていない。プロテスタント教会は、キリストの犠牲という一つの意味深い事実の上に、あまりにも大きな価値を置きすぎている。たしかに人間はこの犠牲の事実を、まさに自分のこととして心から受けとり、それに自己の分を加えて、その土台の上に、力をつくして建設しつづけねばならない。ただし自己の分の足りないところは、神の恵みぶかい補いと赦しとが与えられるという慰めをつねに抱きながら。反対にカトリック教会は、ただこの教会に属することがあらゆる聖福の根拠であり、そうでなければ、あらゆる呪いの源泉だ、ということをあまりにも信じすぎている。

 キリストの本当の教えが、そのすべての部分において、もう一度、パウロ、アウグスチヌス、トマス・ア・ケンポス、ルター、カルヴァンなどに較べて、もっと重んじられるようにすること、また、各個人の現世および永遠の運命に対する厳しい自己責任の感情(これは教会のおかげで失われてしまった)を、彼らに取り戻させること、これこそいまや近づきつつある新たな宗教改革の目的であるように思われる。なるほど教会は今後も存続するであろうし、また教会みずからが主張するように、さらにローマの聖ピエトロ教会の円(まる)天井の壁に大きな金文字で記されているように、「地獄の門もこれに勝たざらん」であろう。しかし教会はみずからを改革し、その唯一の主にして師なるお方の本質と意志において、新たな存在の根拠をぜひともつかまねばなるまい。これは教会にとってなんとしてものがれえない運命である。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』