蜀犬 日に吠ゆ

1919-04-01

[][]四月一日 人間生活において、ひとをひどく疲れさせ はてなブックマーク - 四月一日 人間生活において、ひとをひどく疲れさせ - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

四月一日

 人間生活において、ひとをひどく疲れさせ、多くの人たちに人生を説きがたい謎と思わせるものは、われわれがつねにその渦中に立っている、なにかの悪とのたえざる戦いである。われわれはほんの一時の休息か享楽を自分に許してみるがよい、そうすればすぐさま悪がなにかの形で勢いを盛りかえし、その古くからの(悪の考えによればまだ時効にかかっていない)彼の権利を主張してくるのだ。なんといっても悪は、まさに「この世の君」であり、退位させられたとしても、いぜんとして支配権を主張しようとたくらんでいる。ただ、悪が支配権を握るには、それに対する、人間の自由意志による同意がなくてはならぬ。ところが、キリスト教の信仰の基礎である、この自由意志の必要性の問題が、かえって多くの人に煩わしさと、恐れとを与えているのである。そこで人びとは、これを防ぐためのあらゆる補助手段を案出した。例えば、あらゆる悪とその結果とから守られるためにはただそこに加入しさえすればよいという教会だとか、世間とのあらゆる接触を断つ信仰生活とか(しかしこれは心の中の毒をまだ吐きつくしていない一種の逃避策である)、それから、キリストや聖者たちによる身代りの功徳(キリストの贖罪による義認)にかんする教理(これは自己の責任を放棄して他人の責任をもってその代りにしようとする考えだ)などがそうである。これらの手段をもって、自由意志による絶えざる選択とその苦悩を避けようと、すくなくとも一時的にも、試みなかった者はないであろう。

 あなたは断然そういう方法から目をそむけなさい。それらはすべてあなたをより高い段階に導くこともなく、それによってかの審判(さばき)を避けることもできないだろう。実際、あなたは、またその審判に従って、この人生の終りにあなたにふさわしい新しい状態に入ってゆくのであり、また入ってゆくよりほかないのである。

 これと異なる審判の観念は、おそらく正しいとはいえまい。その審判がたとえあなた自身によってなされるのでなくて、第三者から下されるときでさえ、せいぜいそれは「この女はそのできるだけのことをした」(マルコによる福音書一四の八)と言われるにすぎまい。しかし、あなたができるだけのことをしようと決心するという、その程度のことはぜひなされねばならない。

 それ以上のことは恩寵の力による。恩寵は、ただ欠けているものを機械的に補うのではなくて、むしろ、人間の内部においてその欠けているものを可能なもの、存在するものに変えるのである。こういう考えは両教派(カトリック・プロテスタント両教会)の教理問答書と完全に一致するとはいえないが、しかし人生の経験とはよく合致している。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫