蜀犬 日に吠ゆ

1919-04-22

[][]四月二十二日 いずれのキリスト教会にも はてなブックマーク - 四月二十二日 いずれのキリスト教会にも - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 私はいずれのキリスト教会にも反対する者ではない(カトリック教会、ギリシャ正教の教会やイギリス国教教会にも反対しない)、もっとも、これらのどの教会もキリストが心に描いていたとおりの教会だとは思わないけれども。私は、真のキリスト者は、この世の終りにいたるまで、あらゆる民族、あらゆる教会において、つねに少数派を形成するにすぎないと信じている。これはまた、「女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜるパン種」(マタイによる福音書一三の三三)について言われた主自身の言葉とも本当に一致するものだ。粉はパン種によって有用なものとなるが、しかし粉そのものはパン種ではない。われわれもまたそういうことで満足しなければならない。パン種においては、量よりも質を重んじなければならないが、粉においてはそれでパンを焼き、食物となり、大勢の人の栄養となれば、それで十分である。もし事柄をこのように考えなければ、ただ教会に受動的に所属し、その儀式に参加すれば、それでよいというほどまでに要求を大幅に引き下げねばなるまい、それとも、キリストはほんのわずかな人たちを救済するだけで、残りの者は救われることなく、ほとんど冷淡に、この世の君(サタン)の手に(人類に対するサタンの支配の分け前として)委ねられてしまうのだという、小会派などの見解に到達するほかはあるまい。

 この両方の見解は、キリストが自身の生活の成果について抱いていられた考えではありえないし、従ってわれわれの生涯の成果であってはならない。

 だから、私は世界最後の審判について、いつも主として大衆的劫罰の印象の強い、いとわしい全般的な審判というものを想像することができない。むしろ、一人ひとりの魂がレーテの河を渡ったのちに、その人の地上生活が自然に継続する形の存在を与えられるという審判を想像するのである。審判は本来、その人の精神的状態の中に存するものであり、来世ではその人の思想だけが問題であって、物質的なものはもはや無にすぎないというその新しい生活条件に、その人の精神状態がどの程度適合するかによって決まるのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫