蜀犬 日に吠ゆ

1919-05-26

[][]五月二十六日 真のキリスト教が実際驚くほど単純で はてなブックマーク - 五月二十六日 真のキリスト教が実際驚くほど単純で - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 この真のキリスト教が、実際驚くほど単純で、ほとんど子供にもできるくらい容易なものだと思えるような、幸福な時間や、日々があり、いや、長い期間があるのである。

 実際、通例はその通りである。子供のように信頼して神の導きに身をゆだね、また祈願するままに与えられる生活は、決してむずかしいものではない。だが、そうする代りに、むしろ真のキリスト教に対する世間の反抗やその評言が、気にかかる別の瞬間もある。キリスト教の諸派の代弁者自身も、彼らが正しいとしないこのようなキリスト教を決して認めようとしない。その上、世間的な意味での偉大なものへ反対は、その偉大なものが成功するとともに消えるのが普通だが、キリスト教への反対は弱くなるときがない。そればかりか、死によってさえ、それらの反対はとり除かれない。われわれはこのことを覚悟していなければならない。さらに、攻撃を受ける方の人も、ときどき陰気な瞬間に、自分は人生のほかの道を進めばもっと成功しただろうにとか、自分は人生の「真実」とその空しい幻影とをとり違えてしまったとか、そんな気にもなる。キリストでさえ、だれからも見捨てられ、二人の強盗の間にはさまれて十字架につけられながら死期を迎えたとき、やはりそのような瞬間を味わった。けれどもかれはこの最も困難な最後の試煉にうち勝って、彼の神への信仰が義と認められたのである。もしこの事実(マタイによる福音書二七の四六*1)が、われわれに伝えられていなかったなら、キリストは決してわれわれと同じ種類の人間ではなく、また人間の最大の苦しみを彼自身は経験しなかったとも、言えるだろう。同じ福音書二七の五〇*2は、ヨハネによってのちに語られた、あの平静で崇高な「すべては終った」という言葉*3とは矛盾しているとさえいえる。しかし確実な事は復活である。これのみが事態を救うものである、そうでなければ、この最後は人を意気消沈させる、重苦しい悲劇ともなったであろうに。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」

*2:「イエスはもう一度大声で叫んでついに息をひきとられた。」

*3ヨハネによる福音書一九の三〇、「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」