1919-06-02
■ [書留][ヒルティ]六月二日 すべての国民的なあるいは家庭の風俗や習慣は 

- 作者: ヒルティ,Carl Hilty,草間平作,大和邦太郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1973/08/16
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 12回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
すべての国民的な、あるいは家庭の風俗や習慣は、もともと、何か一般的に善い意味を持っているものである。さもなければ、それらはおよそ風俗とはなりえなかったであろう。
われわれはその意味を発見するように努めなくてはならない。まだそのような意味があるかぎり、その習慣を守りつづけるがよい。なぜなら、習慣というものはものごとを容易にするからだ。けれどもそれらがその意義と精神とを失ってしまったら、まだその習慣がいかにも神聖そうな顔つきをしていても、席をゆずらねばならない。
われわれはみな、生活の行程において、そのような古いものをぬぎ捨ててきた。それはたいてい利益を伴うが、時には早すぎて、そのためかえって生活に滞りが生ずることもある。また時には、結局、改善された形でふたたたび古い習慣に戻ったこともある。するとその習慣は、多少皮肉なほほ笑みをもって、またわれわれを迎えてくれる。ちょうど、われわれが近代的なホテルに気をひかれてしばらく遠のいていた、あの善良な古風な宿屋の主人がするように。
プロテスタントの人たちのもとで行われる規則的な聖書の朗読やきまった時刻の祈りは、とりわけそのような習慣の一つである。それらは、無理解な両親や教師のせいで今どきの人たちにはひどくいやがられているから、おそらく一時的にはすっかりすたれるにちがいない。だが、いずれ後になれば、それらはおのずからよみがえってくる時があるだろう。
疑いもなく、聖書に記された過去の追憶のなかには、美しくないものがかなり多く含まれている、一般に歴史においてはそういう事が起るように。だから、思慮のある母親はその子供たちにむぞうさに聖書を渡して、読むように勧めたりはしない。むしろまず、その中のいろいろな物語を話して聞かせるようにする。
やがて子供たちが成人すれば、それからは自分で聖書を手にとるがよい。しかも、そのとき、こういう人が、自分は聖書から初めて悪を学んだと言ったら、それこいつわり者である。
ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫