蜀犬 日に吠ゆ

1919-06-15

[][]六月十五日 われわれがどんな犠牲を払っても はてなブックマーク - 六月十五日 われわれがどんな犠牲を払っても - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 現在われわれがどんな犠牲を払っても手に入れなければならない真のキリスト教は、単にある事実に対する信仰とか、教会の一定の信仰箇条に対する信仰にあるのではない。あのヤコブが激しく、しかも正当に言っているように、そんな信仰なら「悪霊どもでさえ、信じて、おののいている」(ヤコブの手紙二の一九)のだ。まことのキリスト教には、ぜひとも神とキリストへの友愛が、あるいは教義的・正統的な形式に従えば、キリストにおける神との友愛が、必要である(ついでながら、これについてはヨハネによる福音書一四の二一―二三*1でさえ神とキリストの位格(ペルソナ)についてある区別を設けているようだ)。このような友愛だけが真のキリスト教に到る真実な拠りどころを与えてくれる。この感情を愛と呼ぶのはふさわしくない、というのは、愛という言葉はしばしば濫用されるし、またキリストへの愛という言葉も、あちらこちらで、特にその他の点では実に美しい同胞教会の讃美歌や、婦人たちの口にのぼると、いささか狂信的なかたちを呈するからである。なお旧約聖書で頻繁に用いられている結婚との比較も、われわれ世俗的な諸民族にとっては、もはや適当でない。われわれは今日、結婚というものを対等な、同権的関係と考えているからだ。同じように、イスラエル民族のあいだに存していた家長制的父権的関係(父と子)も、もはやわれわれの間には存在しないし、従ってそれを比較のために用いることはできない。しかし、この種の最上の人間関係に似ている、友愛といったものならば、神との間に結ぶことができる。この友愛があなたに要求するのは、ただ誠実と信頼とであり、それ以上のものではない。あなたが信仰を持ちつづけたいと思うなら、必ずこれらの性質を持っていなければならない。マタイによる福音書一二の四三―四五。

 この神との友愛が知れ渡ると、もちろん、ほかのこれまでの友人はあなたから離れ去っていく。というのは、彼らはそのようなことを夢想か、思考力の弱さだと解し、また、この超自然的な神との結合について政治的、教会的、あるいは哲学的な疑念をいだくからである(実際、これらの問題に対するあなたの態度全体に、神との友愛がたしかに強く影響をするようになるだろう)。あなたはそういう事態に耐えねばならないし、いや、およそ世間でのいろいろな名誉をも断念しなければならない。ヨハネによる福音書五の四四、マタイによる福音書一六の二四―二六、四の八―一〇。しかしこのことは、大体において、――ただ特別な場合をのぞけば――あなたがおそらく想像するよりも、はるかに容易である。それどころか、幾人かの本当に善い人間を友人に得ることで、つぐなわれるであろう、あなたがそれをことさら求めずとも、また信仰上の小さなサークルに加わらない場合でも。

 あなたの方では、以前からの友人に対する友情をいつまでも守りつづけるがよい。彼らがそれを許してくれ、またあなたによくない感化を与えないかぎり。マタイによる福音書一二の四六―五〇。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」