蜀犬 日に吠ゆ

1919-06-16

[][]六月十六日 この世の恐るべき貧困の量について はてなブックマーク - 六月十六日 この世の恐るべき貧困の量について - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 マタイによる福音書九の三六・三七*1 、五の四三―四五・二五。

 この世の恐るべき貧困の量について、わけてもすべての国々の広い庶民層が上流のめぐまれた階級に対していだく憎しみの深さについて、たいていの上流の人たちは十分の理解を持っていないか、さもなければ目をつぶってそれを知ることをわざと避けている。このような無知をほとんど許さなくしたのは、社会民主党の一つの功績である。この勢力ある団体を抑制しようとする方策は、政府においては暴力的弾圧であり、自由主義的ブルジョア階級においては譲歩・妥協である。しかしながら、両方策ともこの憎しみを根こそぎ抜き去ることはできない。それはむしろ愛によってのみなしとげられることである。だが、愛があくまで愛であって、ふたたび社会的機構に堕しないように愛を組織すること――例えば、単に奉加帳への署名で寄附金を集めることによって一定の金額を確保し、つぎに委員会を選び、書記か管理者を任命する、これらの人はその仕事で生活し、毎年報告書を提出する、というような仕儀にならぬように――こういうように愛を愛のままに組織するということは、これからなお熟考を要する将来の問題である。一般的にいって、社会施設として比較的栄えるものは、ごく小規模に、企画者の信仰により独力で始められ、神の恵みにささえられるがままに、しだいに成長して行くが、しかし保証された収入をあてにすることもできず、また教会の形式をとることもないような施設である。とにかく、どんな負債や欠損についても、福音書のなかにその補いの拠りどころを見出すことはできない。あの当時すでに相当ひどい状態だった一般の貧窮を救うための寄附金募集をさえ、キリスト自らは一度も命じたことはなかった。そういう機会が明らかに存していたと思われる場合にも、なおそれを命じてはいない(マタイによる福音書一四の一六―一九*2)キリストは自分の持っているものを人に与え、人びとがこの手本にならい、神の祝福を受けるのを頼みとされていたのである。ところが今日では、公衆に向って寄附の勧誘がつぎつぎに呼びかけられ、しかも真に困窮に同情するならば、自分たちでわけなく直ちにそれを助けその苦しみを緩和することができるし、だからまっ先きそれをする義務あるはずの人びとが、ただ勧誘ばかりをしていることが多いのである。

 自分たちの無為のために貧困におちいったエルサレムの教団に対して、パウロが行った最初の「寄附金募集」にも、おそらく彼自身の名をその地の人たちに覚えていてもらいたいというそれ自体もっともな願いがいくらかあずかっていたであろうが、われわれはこの献金に対して実際どんな祝福が与えられたかは、なにも読まないのである。むしろ反対に、同地の受領者たちはこの使徒に、はなはだよくない助言を与えたし、しかも彼が捕えられた時にも、彼のためになんにも世話をしなかった。このことは使徒の献金に対する一つのさばきでもあった(コリント人への第一の手紙第一六章参照)。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、『収穫は多いが、働き人がない』。」

*2:「するとイエスは言われた、『彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい』。弟子たちは言った、『わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません』。イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい。』そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンを割いて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆にあたえた。」