蜀犬 日に吠ゆ

1919-06-18

[][]六月十八日 カーライルを長い間にわたって はてなブックマーク - 六月十八日 カーライルを長い間にわたって - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 あなたはカーライルを長い間にわたって精神生活の指導者・案内人として仰ぐことはできないだろう。この世の広い道からよりよき道へ方向を転じようとする初めの頃には、彼は実にこの上なくひとを発奮させる読み物である、ところが、このクレーゲンパトック(スコットランド南部の地名)の遁世者は、クロンウェルについてのすばらしい本を書いたにもかかわらず、「キリストの栄冠と聖約のため」というモットーを、自分では全く守らず、神との友愛に徹することもせず、ついに人間的な「英雄崇拝」にとどまった。ゲーテやジャン・パウル(ゲーテ時代の小説家)と知り合いになったことが、イギリス大国民のモーセかヨシュアのような預言者となるべき運命から、彼を転向させてしまった。彼は洗礼者(キリストの出現を準備したヨハネ)だったが、それはある程度までであった。

 今日でも、現代の諸国民の教育資料から聖書的要素を除き去り、ゲーテ、シラー、プラトン、孔子、その他の「偉人」の言葉をもってそれに代えることができると信じている人たちがいる。そのような人びとは、今日の書物の中で、聖書からの引用に出会うたびにつまずいてしまう。けれども、マタイによる福音書一七の二七の「彼らをつまずかせないために」という主の言葉は、たしかに金銭上の問題その他のささいな事柄にはあてはまるが、このような場合にはあてはまらない。聖書をよく知り、絶えずそれを読むことは、決してどうでもよい事柄ではないのである。むしろわれわれは聖書に基づいて自己を測り、判断し、はげまし、かつあらゆる「人間的な、あまりに人間的な」ものから遠ざかるようにしなければならない。ゲーテも、その最初の頃のままで、聖書を捨てなかったら、おそらく別人になったであろう。彼がどんなに「生の楽しみをつくした」にせよ、聖書へのあこがれは決して彼の心を去らなかった。

 こういう問題がふたたび大いに論ぜられる時代が今にやって来るだろう。その時あなたを聖書からひき離そうとする人たちに従わぬがよろしい。そこには決して祝福が宿らないからである。われわれはその内的生命の根を、外的成長とともに伸ばすことはできないし、あるいは、良種の木の幹に異種の枝を罰なしに接ぎ木することもできない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫