蜀犬 日に吠ゆ

1919-11-03

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眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 私の助言が求められれば、「祈る(バーテン)」という言葉をあなたの辞書から除き去って、その代わりに「願う(ビッテン)」という言葉を補いなさい、と言いたい。

 「祈祷」という言葉は、一定の時刻に、一定の文句で「行われ」ねばならない、神への型通りの挨拶といった、妙な、よくない添え味をもっている。それは、いわば一種の貢物(みつぎもの)のようなもので、しかもしばしばひどく不満で、肚(はら)の中ではむしろ敵意をさえいだく領民が、もともとなに一つ与えたくない領主に、いやいやおさめる年貢のように感じられる。公の祈りはすべてそのような性質のものである。たとえば、祈祷書を見ながら唱えられるので、会衆の心には弱い反響しか与えず、ときには全く反響を呼ばない、教会の退屈な連祷だの、また、大いそぎでもっと楽しいことに移るために、できるだけすばやく片づけられる食卓の祈りだの、そのほかこれに類する仕組みのものはみなそうである。

 われわれみんなが、神にたいしてしなければならないことは、形式的なことでも、特別なことでもなく、ほかの願いと同じような、一つの願いである。もっとも、その願う相手はなみなみならぬ、人間を越えたお方ではあるが。われわれが神と話をするときは、総じて、ただ願うか、感謝するかすればよいのであって、単なる「崇敬」では、神に仕えることにはならず、また、われわれ自身にも役立たないのである。

 だから、あなたが「祈る」ことができないと言っても、私はそれがよくわかる。今日では、あなたばかりでなく、なお多くの人たちがやはり祈りえないのであってえ、その中には、たいへん善い人もまじっている。あなたも一度、願うことをためしてみるがよい。およそ、あなたが本当に神を信じているのなら、そうすることは全く自然なことに思われようし、また実際、それはうまく行くだろう、もしあなたが、祈りを一定の時刻に、一定の言葉で行うという形式主義をことごとく捨てさり、また、そうすることで神のために何かひとかどのことを行っているという余計な考えを全くいだかないで、それをすることができれば。

 「主の祈り*1」については、もしそれをあなた自身が感じている真実の願いとして唱えることができるならば、安んじてその言葉どおりに祈りなさい。しかし、さもなければ、すべてのほかの祈祷の公式と同様に、あなたのためにすこしも役に立たない、もっとも、「主の祈り」はこれまで唱えられた、そして今後唱えられるであろう祈りのなかで、真に必要なすべてのことに対する、最もよい、最も美しい、簡潔な祈りにちがいないが。しかし、祈りというものは、あなた自身の感情にぴったりしていて、あなたの個人的な真実の願いでなくてはならない。そうでなければ、むしろ、もっと簡単な「主よ、お助けください」という言葉だけを唱えるがよろしい。この言葉も、同じように、われらの主の祈りであったし、しかも、これはおそらく、さきに挙げたいわゆる「主の祈り」よりも、また、われわれが福音書の中で接するよりも、ずっとたびたび、主が用いられたものであろう。

 神は、われわれを次のようにして助けられる、「われらは祈りを神にささげる、すると神はわれらのために語り、かつはたらき給う」ブリストルのジョージ・ミュラー*2

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1マタイによる福音書六の九―一三。

*2:ジョージ(ゲオルグ)・ミュラー(一八〇五―九八)、ドイツ生まれ、イギリスで熱心に宣教活動をおこない、ブリストルの近くに孤児院を設立し、数千もの孤児を救済した。