蜀犬 日に吠ゆ

1919-12-20

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眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 ヨハネによる福音書一〇の一七・一八*1。われらの主は、普通に認められているように、その公けの活動の第二期に初めて、ではなくて、おそらくかなり早い時期からすでに、自分の早い死と復活の内的確信を得ていたように思われる。主がゲツセマネと、十字架上でこころ臆したのは、いずれもこの確信が、一時彼を見捨てそうになったからであった。しかし、そのときすぐ、この確信がまた彼のこころのなかで優勢をとりもどしたのである。それ故、ただ弟子たちばかりでなく、主においてもやはり、復活がなければ、キリスト教の成立は心理的に説明できないであろう。ある偉大なことのために自分の生命を犠牲にしたものは、ひとりキリストだけではないが、しかし、その活動の初めから、あらかじめ、それをすっかり明瞭に自覚していたのは、おそらく、ただキリストだけであろう。

 もし真のキリスト教によって、だれでもはるかに幸福な生活に達することができるとわかれば、ほとんどすべての人がキリスト教を信じる決心をするであろう。しかし、その際、どれだけ多くのことを耐え忍ばねばならないか、その全部がいっぺんにわかっったら(しかも、それに対して、神から授けられる力を、前もって知ることも、おしはかることもできないのだから)、ほとんどだれひとりこれを信じるよう決心するものもあるまい。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかがわたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父を授かった定めである。」