蜀犬 日に吠ゆ

2009-01-26

[][]数学ゴシップ~~木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ 17:26 はてなブックマーク - 数学ゴシップ~~木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ - 蜀犬 日に吠ゆ

 幾何の説明や数式がまったく理解できなかったので以前挫折した本。ちょっと思い出した記憶を確かめたくて開いたのですが、やはりまったく理解不能。

天才数学者はこう解いた、こう生きた (講談社選書メチエ)

天才数学者はこう解いた、こう生きた (講談社選書メチエ)

 ただ、過去の数学者のエピソードはおもしろいので書き留めておきます。

第一章 古代の方程式

 以下、各小見出しは私が勝手につけました。


ピタゴラス

 さて、ピタゴラスはどうやって、ギリシア数学の基礎を築き上げる、という巨大な業績を残すことができたのであろうか?最近の研究によってその秘密がかなり明らかになってきた。ピタゴラス学派の人たちが、自分たちの発見をピタゴラスのものだと偽ったため、数百年にわたるピタゴラス教徒たちの研究成果がすべてピタゴラスに独り占めされてしまった、というのである。

 現に、プラトンの弟子たちが自分の発見をピタゴラスに結びつけて権威づけしようとするのをアリストテレスが批判した文章が残っている。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 ピタゴラス本人が数学にどれだけ貢献したかはほとんどわからない。そもそも数学者ですらなかった、という説もある。ピタゴラスの定理の発見者がピタゴラスかどうか、極めて怪しいと言わざるを得ない。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 ひどい。


アルキメデスのパリンプセスト

 四〇万ドルで始まった競りは、たちまち一〇〇万ドル(一億円以上)に跳ね上がり、大学図書館などの貧乏人ははじき飛ばされて、戦いは二人の男にしぼられた。ついに二〇〇万ドルの声があがり相手の男がギブアップ宣言、勝者に拍手が送られた。一九九八年十月二九日、アルキメデスのパリンプセストが史上最高額の数学書として落札された瞬間である

 この本は、もともと一〇世紀に東ローマ帝国のイスタンブールで筆写されたアルキメデスの著書であったが、第四次十字軍がなぜか聖地エルサレムではなくイスタンブールを襲撃、当時貴重だった羊皮紙資源としてこの本を略奪してインクを洗い流し、聖書としてリサイクルしていたのである(そもそもパリンプセストとはこのように二重書きされた本の一般名称である)。

 消しきれずに微かに残った原文が、すでに失われたと信じられていた貴重な数学の資料だとして再発見されたのが一八九九年。原文の一部は書き写され出版されたが実物は一九二二年のギリシア・トルコ戦争の際に行方がわからなくなっていた。それが一九九八年、ニューヨークのクリスティーのオークションにひょっこり姿をあらわし、匿名のアメリカ人の手に渡ったのである。現在はボルチモアにあるウォルターズ美術館で修復・データベース化の作業が進められている。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 はじめて知りました。すごい出物があるものですね。

 第四回十字軍がなぜかイスタンブル(当時はコンスタンティノープル)を攻めた件については、「なぜか」となっています。十字軍をあつかった歴史関係の本ならそこ(スポンサーとなったヴェネツィア商人の意向)に話の力点があってもいいのでしょうけれども、数学の本なのであっさり。


三等分家(trisector)

 「あれ、角の三等分は不可能なんじゃなかったっけ?」と今小声で言ったあなた。はいもう一度、大声で繰り返してください。コンパスと目盛りのついていない定規だけを使って、任意の角(たとえば三〇度)を三等分することは、足して奇数になるような二つの偶数を発見するのと同じくらい不可能なことなのである(不可能の証明は付録2で行う)。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 「不可能」の例証が、私には逆立ちしても出てこないフレーズ。

 角の三等分の作図法を「発見」してはレポートを送りつける人たちのことを「三等分家」(trisector)と呼ぶが、これはレポートを送る側も送られる側も不幸になるだけだから決してやらないように。まともな数学者ならそんなレポートは読まずに捨てる。アメリカには三等分家間違いを研究する奇特な数学者がいて、それぞれの作図法をコンピューターでシミュレートしては「六〇度を三等分して誤差が六分二〇秒か、例の間違いパターンだな」なんてほくそ笑むらしい。ちなみに最高記録は六〇度を三等分して誤差が一・五七秒になったという。

 角の三等分ができれば社会に大して素晴らしい貢献になる、と信じている三等分家も多いそうだが、そういう人を見かけたら「角の三等分よりも、便箋を簡単に三等分に折りたたむ方法を発明する方がよほど社会の役に立つ」(ド・モルガン)という言葉があることを教えてあげてください。三等分家の悲惨な末路はホッブズの項でゆっくりと観賞する。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 悲惨な末路を癇性ですか。歴史学で言えば「邪馬台国の位置に関する新発見」とか「神代文字」あたりのアマチュア研究家のたぐいがこれにあたりますか。


アルキメデス

 パリンプセストに書かれていたのは「方法」と呼ばれるアルキメデスの友人エラトステネスへの手紙だった。数学の定理の発見方法について説明した、ギリシア時代のものとして極めて珍しい資料だ。その中に「ある種の問題は、まず工学的な方法で答が明らかになってしまう。もちろんあとで幾何学的に証明をつけなくてはいけないのだけれども、それでも最初から答がわかっているのと、一から考えなくてはならないのとでは雲泥の差がある」という一節がある。アルキメデスの数学の特徴として、抜群の工学的センスが挙げられる。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 幾何の問題でも、アルキメデスは目盛りつきの定規(ものさし)を使うことに積極的だったそうです。もちろんそれで当たりをつけるのであって、それを答にはしないわけですが、プラトンのようにプラトニックな立場からは嫌われる解法ですね。

 ある時、てこの原理を宣伝して「支点さえあれば、地球だって動かしてみせます」と豪語するアルキメデスに、王様は「そこまで言うなら、実験して見せよ」と命じた。そこでアルキメデスは滑車を組み合わせた機械を作り、大きな船に人をいっぱい乗せて、その滑車を使ってたった一人でするすると船を引っ張って見せたのである。こんなことができる数学者が現代にいるだろうか?

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

円積問題

 紀元前四五〇年頃、アテネの町に「太陽は赤く燃える石であり、月は土でできていて太陽の光を反射して光っているに過ぎない」と主張する男があらわれた。アテネに哲学を持ち込んだ男、とされるアナクサゴラスである。太陽神アポロンと月の女神アルテミスを侮辱するものだ、とかんかんに怒ったアテネ市民はアナクサゴラスを牢獄にたたき込んでしまった。しかし元々アナクサゴラスは学問をしたくて、莫大な財産を捨てて故郷イオニアからアテネに上京してきたほどの男だ。牢獄の中でも意気消沈するどころか、「与えられた円と同じ面積の正方形を作図せよ」という問題を考え始め、それについての本まで書き上げてしまった。これが円積問題が歴史にあらわれた最初である。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 円積問題よりも、アナクサゴラスの主張のほうが気になりますね。神への冒涜であるのはもちろん、「太陽は赤い」というのは朝日夕日のことでしょう。昼の太陽の、あの白さをどう見たのか、興味があります。


 紀元前四一四年、アリストファネスの喜劇『鳥』の中に「土地を測量してやろう。この曲がった定規とコンパスで円と同じ面積の正方形を作図するのじゃ」といきなり舞台に飛び込んでくる幾何学者が登場する。「何を言っとるのかさっぱりわからん。イカサマ師はお断りだ。とっとと帰った方がいいぞ」と忠告されたのにぐずぐずしていたため殴られて「おお、痛てっ! おお、痛てっ!」と逃げ帰るだけの役なのだが、なぜかそれ以来円積問題は数学者以外の一般市民にも知られるようになり、「円積問題家」と言えば不可能なことを試みる人、という意味で使われるようになった。この頃、キオス島出身のヒポクラテスによって「円と同じ面積、と言われるとよくわからないが、月形なら同じ面積の正方形を作図できることがある」という結果が発見されている(囲み10)。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 アリストパーネス先生はどこにでも出てきますね。だれの悪口も言って回るというか。おそろしい作家…

 ところで、どういう話の流れで「土地を測量してやろう」と幾何学者があらわれるのでしょうね。しかも殴られて退場って、全然本筋には絡まないと言うことなのでしょうか。


プラトン的

 というわけでアルキメデスとは一線を画す、プラトン先生のイデアへのエロース。

プラトンの答は「教育をおろそかにし、幾何学をないがしろにしたギリシア人の無知を神があざわらったのだ。祭殿の大きさを二倍にすることはユードクソスに頼めばできるだろうが、神が望んでいるのはそういう解決ではあるまい。数学を学ぶことによって心を平穏にし、戦争をやめ友好関係を結んでギリシアを富み栄えさせることであろう」。一世紀のローマの歴史学者プルターク(プルタルコス)が伝える物語である。

 プラトンの弟子ユードクソスは、体積を二倍にする作図を行うための道具を作っていたが、プラトンはそれにも不満で、「そのような機械的な解決に満足していては、幾何学のもっとも美しい部分を見失ってしまう」と弟子を叱りとばしている。

 二一世紀の今だから言えることだが、プラトンの言葉はある意味で正しかった。三大作図問題はこれまで見てきたような意味でギリシア時代に解決していたが、プラトンの意味で、すなわちコンパスと目盛りのない定規だけで、という条件のもとでは未解決のまま、次世代への課題として受け継がれてゆくのである。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 さすがプラトン先生は数学に大してプラトニックですね。私がプラトニックって言いたかっただけですが。

アルキメデス最後の戦い

 紀元前二一八年、第二次ポエニ戦争が勃発する。ローマ帝国とカルタゴによる西地中海の制海権を争う世界戦争であり、両国の中間に位置する小国シラクサも否応なしに巻き込まれる。カルタゴ側についたシラクサに対して、ローマは名将マルケルス率いる大軍を送り込んだ。

 五日でカタが付くさ、と不用意にシラクサに近づいたローマ海軍は、パチンコと投石機による猛攻を受け、開戦早々大損害を蒙ってしまった。シラクサ王はアルキメデスに兵器の開発を命じていたのである。とにかく城壁に近づいてしまえばこっちのもの、と突進していくと、今度は城壁からクレーンの腕が延びてきて、船を上から押さえつけて沈めたり、脇から突っついてひっくり返したり、果ては船を海面から持ち上げて岩に叩きつけたりしたので、マルケルス将軍は一旦撤退して、精密兵器が使いづらい夜戦を挑んだが、今度も投石と矢が襲いかかり、大敗を喫することになる。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 この第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)のときのアルキメデスの活躍は、岩明均『ヘウレーカ』白泉社 に詳しく描かれています。漫画ではアルキメデスはもうトシなので主人公の若者がその道具を使うということになっていますが、ホントに二千年前?という兵器の活躍が迫力を持って活写されています。


 古い記録に残っていないので信憑性には欠けるが、「アルキメデスの着火鏡」という兵器の話も残っている。老人がパラボラ型に鏡を組み立てているな、と思ってみていると、そこから太陽の光が反射して、船が突然燃え上がった、というのだ。マルケルス将軍が夜戦を選んだ、というのもこれが理由だとすれば納得がいく。そんなことが物理的に可能なのか、という疑問も生じるが、一九七三年にギリシアの工学者イオニアス・サッカスが一七〇cm×一七〇cmの銅鏡百枚を使って数十メートル離れた所にある木材に火をつける実験に成功している。ともかくあれやこれやの新兵器が次から次へと繰り出されるので、城壁にロープ一本、木材一つ見つけただけでローマ兵は「またアルキメデスだ!」と我先に逃げ出すていたらくとなってしまった。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 またしても孔明の罠! ということでしょうか。

 クレーンの時の話ではありませんが、現代にこんな数学者はいないでしょうねえ。ほとんど人間業を越えています。逆に考えれば数学は錬金術(魔法)の中心をしめました。魔法陣とかね。出来杉くんは自信たっぷりに「ない」といっていましたが、数学あるかぎり、魔法は何度でも蘇るのではないでしょうか。


数学の敗北

 数学対キリスト教の戦いは、御存じの通りキリスト教の圧勝に終わった。四世紀の末にはキリスト教がローマ帝国の国教となり、異教徒の弾圧を始める。最古の女流数学者として名を残すヒパティアが四一五年にキリスト教徒たちの手によって八つ裂きの私刑にされ、数学を禁止する法令が出され、ついに五二四年、キリスト教徒でもあった数学者ボエティウスが処刑され、ギリシア数学の伝統を受け継ぐ者が、地表から姿を消すのである。ローマ文化は衰退し、二次方程式どころか足し算も怪しくなり、キリスト生誕を西暦元年にしたつもりが計算違いでずれてしまったという。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 あれって、年代比定の問題ではなくて計算違いだったのですか。

 メモ。アテネのアカデメイアが閉鎖されたのは西暦529年。東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世による(ギリシア神殿の閉鎖は346年、最後の古代オリンピア競技会は394年)。


ゼロの誕生

 二次方程式や正五角形の作図の問題がはるか紀元前に解かれていたのと比べると、0の発明はずいぶん最近のことだ。0という記号が使われたもっとも古い記録は西暦六八六年のカンボジア。これにより位取り記数法が完全なものになった。バビロニア人もインド人も古くから位取り記数法を使ってはいたが、0を空白であらわしていたので、たとえば203と2003との区別が難しかった。カンボジアが0の起源なのかどうかまだわかっていないが、八世紀には0はインドで広く使われるようになり、そこから中国やイスラム世界へと伝えられた。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 てっきりインドだと思っていましたが、記録ではカンボジアとは。


アル・フワリズミ

 アル・フワリズミは七八〇年頃に生まれ、八五〇年頃没。その名前からして、少なくとも祖先はアラル海の南のフワリズム(ホラズム)地方(現ウズベキスタン・タジキスタン)の出身だったろうとする説が有力である。病床のカリフ、アル・ワシックのホロスコープを計算し、「あと五〇年は大丈夫です」と告げたが、カリフはその一〇日後に亡くなってしまった、という話が残されている。アル・フワリズミ本人についてわかっていることはこれくらいのものだ。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 そのくらいなのかもしれませんが、そのおっしゃりようはあまりに冷たくないでしょうか、木村先生。


アルゴリズム

 アル・フワリズミは0を用いた記数法の優秀性をいち早く見て取り、『インド人による加法と減法の書』を著した。位取り記数法を用いた加減乗除、および平方根の計算手順(要するに今の小中学校で習うような、普通の計算手順)を懇切丁寧に解説してみせたのである。

 その影響力は圧倒的であった。一〇〇年以上後の計算法の教科書には、「インド式記数法によって簡単に、しかも素早く計算できるようになるので、書記たちのほとんどはこの方法を使わざるを得なくなった。計算中に心を煩わせる必要が少なくなったので、話をしながら計算をしても答を間違えなくなった」と記されている。われわれは最初からこの方法に慣れているので特別に簡単とも思っていないが、実は大変な発明なのだ。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 いやあ、私は話をしながら計算なんて無理ですね。根をつめても繰り上がりの足し算とかめちゃくちゃですから。


 ヨーロッパでもこの本のラテン語訳を通じてインド式記数法を使うようになった。その中で「アル・フワリズミが(言うには)」を「(Dixitディクシット)Algorismiアルゴリズミ」と訳したのがのちに勘違いされて、計算手順や計算方法のことを「アルゴリズム」と呼ぶようになり、またインド式記数法の数字のことを「アラビア数字」と呼ぶようになったのである。ゼロ、という言葉もこの本のsifrがラテン語訳でzephirumとされたのがもとらしい。

 ちなみにアル・フワリズミの位取り記数法で扱われるのは1、2、3、…という自然数のみで、小数はまだ発明されていなかった。小数の記数法を完成させたのは十五世紀の初め、サマルカンド(現ウズベキスタン)のアル・カシだ。ヨーロッパで小数が使われるようになるのは十六世紀の終わりのことだ。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ
アルジェブラ(代数)

 代数の歴史にとって決定的だったのが、アル・フワリズミの『アル・ジャーブルとアル・ムカーバラの書、縮約版』である。縮約版がある以上元本があるに違いないのだが、そちらは見つかっていない。題名の意味はあとで詳しく見るが、「アル・ジャーブル」が「アルジェブラ(代数)」の語源になったことを見ても、その影響のすごさがわかる。何がすごかったのか。中を覗いてみるとしよう。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 『~~の書』とか『アル・~~』とか言われるともうネクロノミコンしか思い浮かんできません。助けてください。(「窓に!窓に!手が!!」)


 前書きにいきなり驚かされる。「アル・ジャーブルとアル・ムカーバラの最も簡単かつ有益な計算について本を書くように、カリフ、アル・マムンに勧められた。これによって遺産分配、訴訟、商取引、土地の測量、運河の掘削、幾何の計算ができるようになる」驚くほど応用に目が向けられていることがわかる。事実これらのテーマのいくつかは、後の章で応用例題として取り上げられている。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 アルキメデスの場合も、その工学的センスが数学を裏づけていましたが、アル・フワリズミはその常識的な、生活に立脚した視点が数学を形づくったのかも知れませんね。


 アル・フワリズミは、古代の数学(ただしギリシアの最高峰は除いて)を集大成し、それをすぐに使える形にしてわかりやすく説明する、という大きな業績を残した。だが、彼は単に古い数学を伝達した以上の重要な貢献をした。それは方程式の発明である。

 アル・フワリズミが「最も簡単でかつ有益」とする問題解決法を見てみよう。求めたい数を「それ」と呼ぶことにして、「それ」と「平方」、それに「ただの数」の間の関係式を作り出す。引き算になっている項があれば、それを反対側に移項して係数をプラスにすることを、アル・ジャーブルと呼ぶ。式の両辺を同じ数で割ったり、同類項をまとめたりすることをアル・ムカーバラと呼ぶ。この二つの操作によって関係式は六つの標準形のどれかに変形されるので、あとは必勝法によって解が求まる。ここに大きな跳躍がある。

 ギリシアでは、すべてを図で表さなければならなかったため、式変形の各ステップに図形が対応づけられねばならなかった(もし彼らが頭の中で式を想定していたら、の話ではあるが)。今の子供たちが小学校で習う算数でも、計算を一つ一つ行うごとに、何を計算しているのか、その意味づけをはっきりさせておく必要がある。アル・フワリズミのアル・ジャーブルとアル・ムカーバラは、式変形を意味づけから解放してみせたのである。式の意味を考える必要がなくなったからこそ自由に変形して標準形にすることができ、従って解の公式が意味を持つようになったのだ。

木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた』講談社選書メチエ

 こうして抽象度を増すことで数学はより普遍へと近づいていくわけですね。


 (つづく)

ヘウレーカ (ジェッツコミックス)

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