蜀犬 日に吠ゆ

2009-03-20

[][][][]学而第一~~宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫 を読む。 20:08 はてなブックマーク - 学而第一~~宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫 を読む。 - 蜀犬 日に吠ゆ

 宮崎先生の超訳『論語』を読んでいきたいと思います。最終的にはリンクを通じて索引のようなものができあがればいいな、と思いますが、どのような形式にするのかは未確定のままではじめてしまいます。

現代語訳 論語 (岩波現代文庫)

現代語訳 論語 (岩波現代文庫)

学びて時に之を習う

 学而第一(1~16)

1 子曰。学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知。而不慍。不亦君子乎。

(訓)子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。朋あり遠方より来る。亦た楽しからずや。人知らずして慍(いきど)おらず。亦た君子ならずや。

(新)子曰く、(礼を)学んで、時をきめて(弟子たちが集まり)温習(おさらい)会をひらくのは、こんなたのしいことはない。朋が(珍しくも)遠方から訪ねてきてくれるのは、こんなうれしいことはない。人が(自分を)知らないでもうっぷんを抱かない。そういう人に私はなりたい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「そういう人に私はなりたい」というのはカナで書いたら「雨ニモ負ケズ」ですが、この辺が宮崎先生の本領です。「君子」の訳が特徴的。

 君子は身分のある男子が原義であるが、そこから立派な人格者を意味するようになった。但し君子は努力すれば何人も到達しうる境地で、孔子の教育において一応の目標となっている。そこで孔子が弟子たちに何ごとかを要求する時にしばしばこの君子の語を用い、時には第二人称の諸君の意に用いることもある(『宮崎市定全集』第四巻、以下『全集四』と略す、一五七頁参照)。諸君という言葉がそもそもこの用法から出たので、諸君子の略である。そこで、亦た君子ならずやは、諸君もそうあってほしい、と訳した方が、文章そのものには近いが、但しこの場合は前から孔子自身の心境を語ってきた続きとして、あえて、私もそうありたい、という意味に訳したのである。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章は、論語の巻頭ということもあって有名です。解釈もさまざまありますが、だいたい不審な点はないでしょう。この文章が一番最初におかれているということの意味について、母里はこの学而時習云々が「すべて孔子の道を学ぶものの信条」とすべきであるためだと考えています。

 孔子の時代ですから「学ぶ」内容は無論「礼」ということになりますし、「習う」とは学んだ礼を実演して見ることをさすわけですが、現代のいわゆる「教科学習」でも、同じ心構えが求められることでしょう。

 「有朋」というのは、朱子によれば、程(伊川)がいうように孔子に同調するものが遠路はるばる訪ねてくることだそうですが、これも、現代流に解釈すれば普段は遠くにいる友達とも、久しぶりに会えば楽しく時間を過ごす、こだわりのない交友関係をたたえるものなのでしょう。

 自意識が肥大して「誰も俺のすごさを認めてくれない」とたがる人の無駄に多い昨今ですが、2600年前の若者たちも同じだったのでしょうね。そんなことでうじうじするのはよせよ、というありふれた慰め。真理はままありふれている。


 宇野先生の解釈も引きます。

学而第一

 子曰はく、学んで時に之を習う。亦説(よろこ)ばしからずや。朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。人知らず、而して慍(いか)らず、亦君子ならずや。

[通釈]先覚者に従って聖賢の道を学び、断えずこれを復習して熟達するようにする。そうすると、智が開け道が明らかになって、ちょうど今まで浮くこともできなかった者がたちまち游(およ)げるようになったようなものであるから、まことに喜ばしいではないか。己の学問が成就すると、己と同じく道に志す人たちが、近い処はいうに及ばず、遠い所までも訪ねて来て、共に善に帰することができるのであるから、なんと楽しいことではないか。学問はもと己の人格を完成するためにするのであるから、己の学問の成就したことを人が知らなくても、泰然自若として、少しも不平らしい心を起こさない。このように、専ら道を楽しんで、境遇の如何によって心を動かさないのは、誠に理想的の人格者ではないか。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 宇野精一氏の序文によれば宇野先生の解釈は「ほとんど朱子の『論語集注』の説に従っているという」ことですので、いわゆる「新注」の代表として参照します。

 両先生とも「慍」を、「うらむ」とは読みません。宮崎注は「いきどおる」、宇野注は「いかる」という意味でとります。意味としては「不慍」で「いらいらしない」ということでしょう。


「人知らずして慍(いきど)おらず」 に関連する他の章句

学而第一人を知らざるを患う

里仁第四知らるべき無きを患うるなり

憲問第十四己の能くするなきを患う

憲問第十四我を知るもの莫きかな

衛霊公第十五「君子は能なきことを病う」

学而第一人知らずして慍おらず


論語新釈 (講談社学術文庫)

論語新釈 (講談社学術文庫)


君子は本を務む

 学而第一(1~16)

2 有子曰。其為人也孝弟。而好犯上者。鮮矣。不好犯上。而好作乱者。未之有也。君子務本。本立而道生。孝弟也者。其為人之本与。

(訓)有子曰く、其の人となりや孝悌にして、上(かみ)を犯すを好む者は鮮(すくな)し。上を犯すを好まずして、乱を作(な)すを好む者は未だ之れ有らざるなり。君子は本(もと)を務む。本立ちて道生ず。孝悌なる者は、其れ仁の本たるか。

(新)有子曰く、其の人柄が親思い、兄弟思いで、社会へ出ていつも目上の者に楯つくことは先ずあるまい。目上の者に楯つくことを好まない者が、君主に向って軽々しく乱を起すことは、決して考えられない。諸君は根本に向って努力してほしい。根本が立てばそれから先は自然に進行するものだ。親思い、兄弟思いということが、人倫道徳の根本だと見てよかろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 儒教を学ぶ上での日々の態度を第1章で述べ、つづいて第2章では君子を目指す上での目標である「仁」を定義します。「仁」は「思いやりの心」ですけれども、それは身近な人にまず発揮するものであるとします。たしかに、逆の人っていますよね。

 もう一つ。朱子学では「修身斉家治国平天下」などといいます。「自分が立派な人間になることを最優先し、それができたら家庭をよいものにし、それができる人間が国のやることに口を出し、世界人類の幸福に参与することができる」という考え方は、この章句との関連が深い。


 有若(有子)は、学而第一にもう一度、顔淵第十二に一度登場します。金谷治訳注『論語』岩波文庫では以下の通り。

有子――孔子の門人。姓は有、名は若。孔子より四十三歳わかい。容貌が孔子に似ていたので、孔子の死後、学団の中心に立てようとする企てがあった。

金谷治訳注『論語』岩波文庫

 企て、などというとなにか実力を伴わずに祭り上げられてしまうようなイメージもありますが、第2章に登場するところから、孔子の弟子たちの中で重要な位置を占めていたことはまちがいないのでしょう。


参考として、

講談社学術文庫

論語新釈 (講談社学術文庫)

論語新釈 (講談社学術文庫)

岩波文庫

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

朝日選書

論語〈上〉―中国古典選 (朝日選書)

論語〈上〉―中国古典選 (朝日選書)

論語〈下〉―中国古典選 (朝日選書)

論語〈下〉―中国古典選 (朝日選書)

なども使う予定。