蜀犬 日に吠ゆ

2009-04-21

[][][][]八佾第三を読む(その6) 20:25 はてなブックマーク - 八佾第三を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ


与に詩を言うべきのみ

 八佾第三(41~66)

48 子夏問曰。巧笑倩兮。美目盼兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。絵事後素。曰。礼後乎。子曰。起予者商也。始可与言詩已矣。

(訓)子夏、問うて曰く、巧笑倩たり、美目盼(はん)たり。素以て絢(あや)と為す、と。何の謂いぞや。子曰く、絵事(かいじ)は素の後にす。曰く、礼は後なるか。子曰く、予を起す者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。

(新)子夏が尋ねた。詩に、笑う口もとの愛らしさ、ウィンクする目の美しさ、白粉ぬって紅つけて、とあるのは何を言おうとしているのですか。子曰く、絹の上に絵を描こうとするには、まずこれを漂白してから後にしなければならならぬのだ。子夏曰く、すると礼式というものは最後の仕上げになるのですね。子曰く、よく言ってくれた。お前がこんなにうまく詩を理解するとはこれまで思っていなかった。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「たとえ話」というのは難しいので、相手に同じような教養が期待できるときしか通用しません。よく、意見の異なる相手にたとえ話を仕掛けて、そこから揚げ足をとられるような場合を見聞きしますが、そもそも啓蒙や説得にたとえ話は向かないと思います。

 孔子は、子夏の質問を説明しようとしていちいち言葉を繰り出しますが、子夏はもっと上の、「詩文は人間の本質を表現する」のではないかということを問いたいのであり、この鋭い指摘で孔子は自らの認識を改めたことでしょう。

 たとえ話の難しさは、イーサー先生もおっしゃっています。

MATTEW 13

 たとえを用いて話す理由

10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。


11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからだ」


12 持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。


13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。


14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。

  『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

   見るには見るが、決して認めない。

15  この民の心は鈍り、

   耳は遠くなり、

   目は閉じてしまった。

   こうして、彼らは目で見ることなく、

   耳で聞くことなく、

   心で理解せず、悔い改めない。

   わたしは彼らをいやさない。』


16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。


17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。

新共同訳『新約聖書』ギデオン協会

 『大学』の「こころここにあらざれば…」に脱線したくなりますが話を戻します。。


 文学を理解するにはある程度の教養が必要。それこそが教養の本質。というのがこの章の結論です。孔子はですから子夏に語釈をしてあげようとして、解釈まで踏み込めるのかと刮目したのでしょう。