蜀犬 日に吠ゆ

2009-04-22

[][][][]八佾第三を読む(その7) 21:00 はてなブックマーク - 八佾第三を読む(その7) - 蜀犬 日に吠ゆ


文献の足らざる

 八佾第三(41~66)

49 子曰。夏礼。吾能言之。杞不足徴也。殷礼。吾能言之。宋不足徴也。文献不足故也。足則吾能徴之矣。

(訓)子曰く、夏の礼は吾能く之を言わんとするも、杞は徴するに足らざるなり。殷の礼は吾能く之を言わんとするも、宋は徴するに足らざるなり。文献の足らざるが故なり。足らば吾能くこれを徴せん。

(新)子曰く、夏の時代の制度は自分ももう少し詳しく語りたいのだが、その後裔の杞の国の今の制度は拠りどころにならぬ。殷の時代の制度も、もう少し詳しく知りたいのだが、その後裔の宋の国の今の制度は拠りどころにならぬ。文献が残っていないからだ。もし残っていたなら、自分はそれで確かめたいのだが。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 訓詁学考証学の祖でもある孔夫子はさすがにいいことを言います。歴史は文献学であり、典拠のない言葉はすべて意味をなさないのです。典拠にしても、それがどのくらい正確であるのかの精査こそが歴史学の要諦であり、極端に言うなら、すべてであります。

 具体例で言うなら、『源氏物語』はたしか*1藤原定家までしかさかのぼれず、私たちが『万葉集』であると知らされる書物は江戸時代の産物ですよ、というような感じ。


 そういう、文献学的素養が感じられない言葉は嘘っぽいということですよね。孔夫子はきちんとしていたということでしょう。



 わたしも、典拠のある言葉遣いがしたくて、こうして論語なんど読んでいるわけでありまして、日々精進して日本語を学びたいです。

*1:ここにきてうろ覚えで申し訳ありませんが、