蜀犬 日に吠ゆ

2009-04-23

[][][][]八佾第三を読む(その8) 20:42 はてなブックマーク - 八佾第三を読む(その8) - 蜀犬 日に吠ゆ


禘は既に灌してより

 八佾第三(41~66)

50 子曰。禘自既灌而往者。吾不欲観之矣。

(訓)子曰く、禘は既に灌してより而往(のち)は、吾、之を観るを欲せず。

(新)子曰く、禘の祭は、灌の儀式がすんでから後は、私は見る気がしない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 禘は魯の先祖、周の王室までを含めて祭る大がかりな礼式であるが、灌はその終に近い段階で香りをつけた酒をまいて祖先の霊魂をよびおろす。恐らくその後に続くものは多くの祭礼に伴いがちな無礼講だったのであろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 あいかわらず宮崎市定先生の大胆解釈。金谷先生の注も引いておきます。

*新注では、祭に誠意がなくなるからだと解し、古注では、当時の魯では、位牌などの序列が乱れていたからだという。

金谷治訳注『論語』岩波文庫

 「八佾篇」の文脈を読めば、魯の祭礼は三桓氏によって仕切られてしまっていた当時のことでしょうから、誠意がなく、位牌の序列も乱れていたでしょう。へたをすると三桓氏の位牌くらいまぎれていたかもしれません。しかしもしもそれほど重大な過ちがあるのであれば、46で冉有に言ったように、それを正すよう努めたはずであり、こんな言い方をしたのは、宮崎先生の解釈のようであったというのも一理。

 ほんとう、泥酔者の乱行は見苦しくかたはらいたいものですからね。自分が泥酔するわけもいかない孔子は気疲れしてしまうのでしょう。


禘の説を問う

 八佾第三(41~66)

51 或問禘之説。子曰。不知也。知其説者之於天下也。其如示諸斯乎。指其掌。

(訓)あるひと禘の説を問う。子曰く、知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れこれを斯(ここ)に示すが如きか、と。其の掌(たなごころ)を指せり。

(新)あるひとが禘の祭の説明を求めた。子曰く、私は知らない。もしそれを知る人があったなら、天下をばこの処にのせて見せてくれるだろう、と言って自分の掌を指さした。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 文字の解釈としてはこれで分らない所はないが、そもそもこれは何を言おうとしているのであろうか。いったい天下を掌の上に運んで来て人に説明してみせるというのは、考えてみるとそれは天子の外にないはずである。そこで憶測の説になるのだが、禘は本来天子の祭で、そのいちばん大切な所は、天子が深夜に凡ての従者を退けてただひとり、極秘に執行する密儀であったのではなかろうか。恐らくそれは天の神と交わり、それが正統の天子たる特権を示すといった種類のものであったと思われる。孔子はわざと天子という言葉を避けて遠回しに言ったのであろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「禘」という字が、祭祀を示す「しめすへん」と帝王を示す「帝」から成り立っていることからすると、なにか特別な意味を持っていることは想像に難くありません。「天の神と交わる密儀」だ、というのはよく分かりませんが、典拠となる所があるのでしょうか。


 魯の国ではそれを周から受け継いで執り行いはするものの、本来の意義から離れた酒宴メインの祭典に成り下がってしまった。もはや説明してもつうじまいという孔子の諦念が読み取れましょう。