蜀犬 日に吠ゆ

2009-05-05

[][][][]八佾第三を読む(その1419:22 はてなブックマーク - 八佾第三を読む(その14) - 蜀犬 日に吠ゆ

告朔の餼羊を去らん

 八佾第三(41~66)

57 子貢欲去告朔之餼羊。子曰。賜也。爾愛其羊。我愛其礼。

(訓)子貢、告朔の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子曰く、賜や、爾は其の羊を愛(おし)む。我はその礼を愛む。

(新)子貢が新月を迎える祭りに用いる羊の犠牲をやめようと言い出した。子曰く、賜や、お前は羊を大事にしたいようだが、私は昔から続いた礼の伝統を大事にしたい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 子貢は孔子教団の財政を管理したともいわれる高弟ですから、とうぜんここで「損得勘定」をたしなめられるわけです。合理主義だけでは人間ははかりきれないのだということでしょう。

 金谷治先生の解釈

 子貢が、(月ごとの朔(はじめ)を宗廟に報告する)告朔の礼(が魯の国では実際には行われず、羊だけが供えられているのをみて、そ)のいけにえの羊をやめようとした。先生はいわれた、「賜よ、お前はその羊を惜しがっているが、わたくしにはその礼が惜しい。(羊だけでもつづけていけばまた礼の復活するときもあろう。)」

金谷治『論語』岩波文庫

 告朔の礼は、毎月の始めに、朔日(ついたち)であることを宣告してその月の暦を施行する儀式。その暦は、周王朝から前年12月にもらっておく由。時代がくだっておそらく周王朝から暦をもらわなくても各国に天文官や史官が仕えるようになったので告朔の礼はその実体を失い形式化したのでしょう。子貢が「羊はムダだ」といいたくなるわけです。


 それに対する孔子の教えも分かるのですが、この件に関しては私は子貢の肩を持ちたいところです。

 俗に「いいものは伝統、だめなら悪習」といいますが、孔子はすべて伝統を「いいもの」として捕らえているのでしょうか。復古主義であり尚古思想の持ち主であるわけですからおそらくそういう結論になるのでしょうけれども、人類の進歩と発展を目の当たりにしてしまうと、「愛礼」で世の中に平和と繁栄を実現できるのか疑問。官僚の前例主義を認めることになりませんか。不効率だ!というと、子貢と同じようにたしなめられてしまうのか。


君に事うるに礼を尽せば

 八佾第三(41~66)

58 子曰。事君尽礼。人以為諂也。

(訓)子曰く、君に事(つか)うるに礼を尽せば、人は以て諂いとなすなり。

(新)子曰く、君主の前へ出て礼儀どおりにすると、今の人はそれを卑屈にすぎると言う。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 それでも正しい礼儀作法を守る、これは理解できます。