蜀犬 日に吠ゆ

2009-05-09

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 私たちがファンタジーを受けいれるとき、それは漫画とかアニメとか気色悪い経路をたどらなくてはならないのか、という疑問はアメリカでも同じようですね。

月曜日は魔法使い (HJ文庫G シ01-01-01)

月曜日は魔法使い (HJ文庫G シ01-01-01)

 TRPGは、決して漫画アニメオタクのものではないという本書。普通たとえ話が漫画やゲームであるのに対し、職場の人間関係やファッション、芸能ゴシップでもいける、という話。


[][][][]八佾第三を読む(その17) 19:52 はてなブックマーク - 八佾第三を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

楽は其れ知るべきなり

 八佾第三(41~66)

63 子語魯大師楽曰。楽其可知也。始作翕如也。従之純如也。皦如也。繹如也以成。

(訓)子、魯の大師に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきなり。始め作(おこ)すや翕如(きゅうじょ)たり。之に従うこと純如たり。皦如(きょうじょ)たり。繹如たり、以て成る。

(新)孔子が魯の指揮者たる大師に音楽の話をした。私にも音楽は分る。最初の出だしは、翕如、それを受けて純如、今度は急転して皦如、おしまいに繹如としてそれで終りですね。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 翕如、純如、皦如、繹如という四種の形容は、今からそれがどんなものであったかを復元することは困難である。ただ言えることは、これが中国に普遍的な四段階で進行する波の形を現わすものであろうという推察である。たとえば絵画に現われる春夏秋冬、詩の絶句に現われる起承転結のリズムである。今の場合、三番目の皦如には何の説明の言葉もついていないのは、それが突然の出現で、絶句の転に当るからだと考えても不当ではあるまい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 そうでしょうか。

 その他の先生の解釈では、翕如、純如、皦如、繹如はすぐれた音楽のもつ特性であって、順序とはかぎらないようです。

 孔子の教団に於いて音楽は、個人個人の集まりが調和して一つの完成をみるものであり、理想的な社会のたとえとして尊重されました。そうした調和の話が出て来ないのはすこしひっかかりますが、この章句の意味は、失われてしまったということです。


夫子を以て木鐸となさん

 八佾第三(41~66)

64 儀封人請見曰。君子之至於斯也。吾未嘗不得見也。従者見之。出曰。二三子。何患於喪乎。天下之無道也久矣。天将以夫子為木鐸。

(訓)儀の封人、見(まみ)えんことを請うて曰く、君子の斯(ここ)に至るや、吾れ未だ嘗て得て見えずんばらず、と。従者、之を見えしむ。出でて曰く、二三子、何ぞ喪(うしな)うを患(うれ)えんや。天下の道なきや久し。天、将に夫子を以て木鐸をなさんとするなり。

(新)孔子が儀の邑を過(よ)ぎったとき、土地の見まわり役人が面会を求めにきて言った。どなた様でもこの地へおいでになった時は、私の役目がらとして必ずお目にかかることにしております。そこで従者がとりついで面会させた。役人が退出すると門人たちに言った。各々方は決して不遇をなげくには及びません。天下に道のすたれたことは久しいものでした。しかし天道さまは今やこれを昔に返そうとして、先生を送って警世の鐘をつかそうとしておいでになるのですぞ

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 これが、儒教が天下をとってから挿入された逸話であると考えることもできますし、まあ封人がおためごかしに言ってみただけという解釈もありますが、感動的な、弟子たちが自分の学問に誇りを持つ勇気をもらったエピソードという風に素直に受けとるのがよいのでしょう。


子、韶を謂う

 八佾第三(41~66)

65 子謂韶。尽美矣。又尽善也。謂武。尽美矣。未尽善也。

(訓)子、韶を謂う。美を尽くし、また善を尽せり。武を謂う。美を尽せり、未だ善を尽さず。

(新)孔子が韶の音楽をほめた。美しさも満点、教育的効果も満点だ。武の音楽は、美しさは満点だが、内容の方はもうひとつという所だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 頽廃芸術論だ!

 それはさておき、これは結局作曲者の人間性を問うているように感じられます。そういう意味で「教育的効果」というのはいい訳語ではないでしょうか。

 現代的にいうなら、たとえば「ジミヘン」の音楽をほめると、まるでドラッグを礼讃するのではないかというように思われてしまうので、心の底からほめられないようなものでしょうか。美空ひばりが天才であったことと、親族の素行不良は別ものなのでしょうけれども、まあその年の紅白はちょっとあきらめてもらうしかないよなあ、という感覚に近いのかもしれません。


 また一方で、音楽をほめるときの「美」というのはどういう事でしょうね。儒教において音楽は「調和の芸術」であったわけですが、音楽のどういう部分を指して「美」というのでしょう。

 以下何の根拠もない思いつきですが、「美」というのはその字を分解してみれば分かりますように、「羊が大きい」という意味であり、それはすなわち「神に捧げられるべき、質の高い」ことでした。ですから音楽も、質のよいものは太廟で演奏して恥ずかしくない、という意味だったのではないでしょうか。

 韶を聞いた時の孔子の反応は、

 子、斉に在して韶を聞く。三月、肉の味を知らず。曰く、図らざりき、楽を為すことの斯に至らんとは。

金谷治『論語』岩波文庫

 ものを食べても味が感じられないくらい、魂消てしまったと。


何を以て之を観んや

 八佾第三(41~66)

66 子曰。居上不寛。為礼不敬。臨喪不哀。吾何以観之哉。

(訓)子曰く、上に居りて寛ならず、礼を為して敬(つつし)まず、喪に臨んで哀(かな)しまずんば、吾れ何を以て之を観んや。

(新)子曰く、最高の責任者、委員長がつっけんどんで、その下の進行係りが失敗だらけ、会葬者がよそよそしいといったんでは、そんな場所にはいたたまれない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 これは葬式の場合について言ったものらしい。現代の日本にだってこういう場合がないとは限らない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 ははは

 「委員長がつっけんどん」。メモ。