蜀犬 日に吠ゆ

2009-06-10

[][][][]公冶長第五を読む(その6) 21:16 はてなブックマーク - 公冶長第五を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ

その仁なるを知らず

 公冶長第五(93~119)

99 孟武伯問。子路仁乎。子曰。不知也。又問。子曰。由也。千乗之国。可使治其賦也。不知其仁也。求也何如。子曰。求也。千室之邑。百乗之家。可使為之宰也。不知其仁也。赤也何如。子曰。赤也束帯立於朝。可使与賓客言也。不知其仁也。

(訓)孟武伯問う、子路は仁なるか。子曰く、知らざるなり。又問う。子曰く、由や、千乗の国に其の賦を治めしむべきなり。其の仁なるを知らず。求や何如。子曰く、求や、千室の邑、百乗の家に、之が宰たらしむべし。其の仁なるを知らず。赤や何如。子曰く、赤や、束帯して朝に立ち、賓客と言わしむべきなり。其の仁なるを知らず。

(新)孟武伯が尋ねた。子路は最高の人物、仁者と言えますか。孔子曰く、知りませんね。重ねて聞くと、子曰く、由は第一級の大国、戦車千乗出せる国の軍備を司らせてもよい。しかし仁者というのはどうですか。次に冉求のことを尋ねた。子曰く、求は戸数が千戸の都市の代官、戦車百乗の小国の奉行となれましょう。しかし仁者というのはどうですか。次に公西華のことを尋ねた。子曰く、赤は礼服を着て朝廷に出仕させ、外交折衝に当たらせることはできる。しかし仁者というのはどうですか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「仁である」というのは修行の完成ですから、孔子もなかなか認めないでしょう。しかし、仁にとどかないものであっても立派に政治を行うことはできますよ、というアピール。

 また、孟武伯としては孔子の門人から何人かスカウトしようかくらいの気持ちで質問しているでしょうから、この話題になっている三人はその名望が高かったことがうかがわれます。孔子としては、顔回を愛していますから「もっと、こういうのを聞いてくれ! 仕事が有能であることとは違う、本当の仁者を見せてやりたい!」くらいに思ったのではないでしょうか。


 この条の問答は、まえに為政篇で触れたような、孔子と孟武伯との年齢の差異から考えて、やはり孔子晩年のものである。そうして、「史記」の「弟子列伝」に、どの弟子は孔子よりもいくつ若かった、という記載を信ずるとすれば、問答の対象となった三人の弟子の年齢は一様でない。かりにBC四八四年、孔子が衛から魯に反った年のこととすれば、それは孟武伯が、孟孺子、すなわち孟の若旦那という呼び名で、はじめて「左伝」にあらわれる翌年であるが、孔子が六十九歳であるのに対し、子路は六十歳、冉求は四十歳、そうして公西赤は二十七歳である。そうして働きざかりの冉求は、当時すでに魯の家老季孫氏の宰、すなわり奉行であったはずであるから、千室の邑、百乗の家、之れが宰たらしむ可きなり、というのは、仮定の言葉でなく、実績に徴しての言葉でもあったであろう。といって、子路について、千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり、というのは、やはり可能性をいうのであろう。先進篇第十一に、政事には冉有と季路、というように、二人は実務の才に長じた弟子であった。また赤すなわち公西華についても、すぐ次の雍也篇に、赤の斉に適くや、肥馬に乗り、軽裘を衣(き)る、云云と見え、それがもし公式の使者となったことを意味するとすれば、この若い弟子も、外交官としての素質をもった人物であったことになる。

 なおこの三人の弟子は、ほかの篇でも往往一しょに出て来る。先進篇の弟子が各おのその志をいった有名な章でも、坐に侍したのはこの三人と、曽晳(そうせき)であり、三人がそれぞれの志、すなわちそれぞれの理想として述べるものは、ここの孔子の評語を、自分自身でいったようなかたちになっていると、和辻博士の「孔子」には注意する。

 また先進篇には、次のような一条もある。斯れを聞けば諸(こ)れを行わんか、という同じ問いに対し、子路にむかって孔子は、そうするなと答え、冉有にむかっては、そうせよと答えたのを、公西華が不審がったところ、「冉有は引っこみ思案だから、はげまし、子路は出過ぎるから、おさえたのだ」と孔子が説明した、という条である。あるいは三人は、孔子晩年の、最も親近な弟子であったかも知れない。なお先進篇で、「仲由と冉求は、大臣と謂うべきか」と季子然が問うているのは、やはりこの二人が「政事」の才と目されていたためであろうし、次の雍也篇でも、二人は、賜すなわち子貢と共に、政治的な才能を、季康子から問われている。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 顔回は、BC482年、孔子71歳の時に死んでいますから、BC484年であればまだ存命中(孔子略年表を参照)。夫子もっと売り込んで下さい。