蜀犬 日に吠ゆ

2009-06-25

ひどすぎる

[][][][]公冶長第五を読む(その13) 23:06 はてなブックマーク - 公冶長第五を読む(その13) - 蜀犬 日に吠ゆ

未だ知ならず、焉んぞ仁なるを得ん

 公冶長第五(93~119)

110 子張問曰。令尹子文。三仕為令尹。無喜色。三已之。無慍色。旧令尹之政。必以告新令尹。何如。子曰。忠矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。崔子弑斉君。陳文子有馬十乗。棄而違之。至於他邦。則曰。猶吾大夫崔子也。違之。之一邦。則又曰。猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰。清矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。

(訓)子張、問うて曰く、令尹子文は三たび仕えて令尹となりて喜色なし。三たび之を已(や)めて慍(いか)る色なし。旧令尹の政は必ず以て新令尹に告ぐ。何如ぞや。子曰く、忠なり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知ならず、焉んぞ仁なるを得ん。崔子、斉君を弑(しい)す。陳文子、馬十乗あり。棄てて之を違(さ)り他邦に至る。則ち曰く、猶お吾が大夫崔子のごときあり、と。之を違る。一邦に之(ゆ)く。則ちまた曰く、猶お吾が大夫崔子のごときあり、と。之を違る。何如ぞや。子曰く、清なり。曰く、仁なるか。曰く、未だ知ならず、焉んぞ仁なるを得ん。

(新)子張が尋ねた。楚の宰相たる令尹の子文は三たび登用されて令尹となったが、嬉しそうなふうもなく、三たび罷められたが、むくれた顔をしなかった。交代の時にはこれまでのやり方を残らず新任者に告げて事務引き継ぎを行った。これは何と評価してよいでしょうか。子曰く、律儀者だな。曰く、仁者といえませんか。子曰く、まだ知者の段階に達しない。仁者なものか。次に尋ねた。斉の家老の崔子がその君主を弑した時、陳文子は四十頭の馬、その他の財産をそっくり残して立ち去った。ところが他国へ行くと、此処にもやはり、わが国の崔子のような家老が居る、と言って立ち去った。次に行った国でも、此処にもやはり、わが国の崔子のような家老が居る、と言って立ち去った。これはどうですか。潔癖だな。曰く、仁者といえませんか。曰く、まだ知者の段階に達しない。仁者なものか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 現代でも、「悪いことをしない」のが「よいこと」であると思っている人は多くて、自分を善人だと信じている人は、ほとんどがこの「悪いことをしない」だけの人物です(あーイライラする)。法律にしてからが「善意の第三者」などという設定を持っているのでタチが悪い。子張はそういうつもりだったのか、それとも、夫子を試すつもりでいたのかは判然としませんが、「知者とさえいえないんだよ」と諭されてしまいます。

 令尹子文は吉川先生によれば新進の子玉に譲ったが、この子玉はいわゆる「有能すぎ」たために楚の敗戦をもたらし、子文が復帰しなければなりませんでした。自身が有能であるのは令尹なのであるから当然として、後任をきちんと選べないのでは君子にふさわしくないと言うことでしょうか。

 陳文子もそうです。崔子のことを知りながら止めることができなかった時点で、その後の行動はすべて鼻持ちならない、お高い態度に成り下がってしまうのかもしれません。


 なお、吉川先生のところで、令尹子文の意外な生い立ちを知りました。

前半で論ぜられている令尹子文とは、南方の大国、楚の国の宰相であって、子文とは字であり、令尹とはすなわち宰相を意味する楚の国の方言である。やはり春秋のごく初期、晋の文公を中心とする時代の人物である。実名は闘穀於菟(とうどうおと)であり、正当ならぬ結婚によって生まれた子であったため、母はこれを野に棄てたが、虎がやって来てそだてた。楚のくにの方言では、乳(そだ)てることを穀(どう)といい、虎のことを於菟というので、こうした名がついたと、「左伝」の宣公四年に見える。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 われわれは於菟を知っている! さすがに林太郎先生はゆかしい名前をつけるものです。吉川先生の本は読んだつもりになっていましたが、全然覚えていませんでした。

 きっと今まで読んだ本も、きっちりメモを取っていない本はすべて忘れてしまったにちがいありません。こうして読み返すことで同じ本がなんども楽しめて、実にお得です。