蜀犬 日に吠ゆ

2009-06-30

とんとんとんからり

[][][][]公冶長第五を読む(その16) 20:23 はてなブックマーク - 公冶長第五を読む(その16) - 蜀犬 日に吠ゆ

或るひと醯を乞いしに、これを其の隣に乞うて

 公冶長第五(93~119)

115 子曰。孰謂微生高直。或乞醯焉。乞諸其隣而与之。

(訓)子曰く、孰れか微生高(びせいこう)を直しと謂うや。或るひと醯(す)を乞いしに、これを其の隣に乞うてこれに与えたり。

(新)子曰く、微生高が正直者だなどという評判はあてにならない。或るひとが酢を貰いに行くと、彼はその隣から貰ってきて、自分の物のような顔をして与えたそうだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 酢ねえ。ミソ醤油や塩に比べると、何か酢漬けとか、常備しておくイメージなので、隣に貰いに行ってその微生高のうちにもなかったというのはねえ。すぐにばれてしまうことなのに、どうして見栄をはったのでしょう。君子たるもの正直に「うちにもないけど隣で借りてきてあげるよ」と謂うべき。顚沛にも必ずですから、酢がないくらいで自分を見失ってはいけないのです。


左丘明これを恥ず

 公冶長第五(93~119)

116 子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。

(訓)子曰く、巧言、令色、足恭(しゅきょう)なるは、左丘明これを恥ず。丘も亦たこれを恥ず。怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明これを恥ず。丘も亦たこれを恥ず。

(新)子曰く、猫なで声、追しょう笑い、揉み手割り腰は、左丘明の恥ずる所であったし、この私も恥とする。敵意を抱きながら親友らしく付合うのは、左丘明の恥ずる所であったし、この私も恥とする。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章句は、もちろん巧言令色鮮仁とかかわるでしょうし、では君子はどのようであるべきかというと「直」であれという意味を匂わせている点では前章115からの文脈を引き継いでいるとも言えます。

 この条の文章のたくみさは、「左丘明之れを恥ず、丘も亦た之れを恥ず」というところにある。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

「之れを恥ず」の恥の字は、反撥をこそ意味するであろうが、反撥は、まず左丘明におけるものとして提起され、孔子みずからの反撥が、それにかぶさることによって、最も強い反撥となる。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 こうして繰り返すことで強調されたということですか。


 巧言令色足恭。これらはいずれも礼を尊ぶ儒教の、孔子の塾では大切にされた作法でしょう。しかし、論語の中で何度も繰り返し否定されます。こうしたオアシス運動的な作法は、そこに内実が伴わずに形式化してしまっては何の意味もありません。なんのための礼であるかに思いを寄せない礼を孔子はなんどでも否定します。


 怨みを匿してその人を友とするのは、前々章の伯夷叔斉が貫いた、周への態度とは正反対です。だんだん分かってきました。伯夷叔斉は自分たちの「直」を貫いたので、怨みをもつことがなかったのですね。自分をねじ曲げて「政治は妥協の芸術」などとうそぶく人は、その心のゆがみを「怨み」のかたちで他人に放射せざるをえませんが、君子はそれがない。