蜀犬 日に吠ゆ

2009-07-01

已んぬるかな

[][][][]公冶長第五を読む(その17) 20:43 はてなブックマーク - 公冶長第五を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

朋友信之

 公冶長第五(93~119)

117 顔淵季路侍。子曰盍各言爾志。子路曰。願車馬衣裘。与朋友共。敝之而無憾。顔淵曰。願無伐善。無施労。子路曰。願聞子之志。子曰。老者安之。朋友信之。少者懐之。

(訓)顔淵、季路侍す。子曰く、盍(な)んぞ各々爾が志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣裘を、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)むなからん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)るなく、労を施しすることなからん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老者はこれを安んじ、朋友は之を信じ、少者はこれを懐けん。

(新)顔淵と季路とが左右に侍(はんべ)っていた。子曰く、どうだね、お前たちの日頃の志を言ってみては。子路曰く、私は外出の車馬、衣服、外套を友達に貸して、使いつぶされても惜しいと思わぬような交際をしたいと思います。顔淵曰く、私は驕って独りよがりにならぬよう、少しの骨折りで恩を売ることのないようにと心掛けています。子路曰く、今度は先生の理想をお聞かせ下さい。子曰く、老人たちには不安をなくし、同輩は互いに信じあい、若者たちには出来るだけ面倒を見てやりたい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 それぞれの日頃の理想、ということですが、三人とも人付き合いの話をしているので、この時はこういうテーマが持ちあがっていたのでしょう。

〔解説〕この章は聖賢の志は公(おおやけ)で私がなく、小大各(おのおの)その量に随うことを見(あらわ)したのである。季路(子路)の志は物を公にするのにあり、顔淵の志は善を公にするのにあり、孔子の志は物に因って物を与え、各そのところを得させるのにある。

 子路は人を済(すく)い物を利する心がある。顔淵は物と我とを平等に見る心がある。孔子は万物その所を得るようにする心がある。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 あまり各人の上下を言っても仕方ないと思いますが、どうしても孔子顔回子路という序列が先入観としてあるものですから……

 シチュエーションとしては非常に子路が個性を表していますよね。孔子先生から問が発せられて、得たりやとばかりにとうとうと志を述べる子路、おそらく間をおくか何かして、ひょっとすると孔子が「子淵はどうだい」くらい促したのかも知れませんが、ぽつぽつ顔回も答えたのでしょう。この時点で子路はイライラしだしていて、子貢ならば「先生わたしたちのどっちが優れていましょうか」というアイコンタクトをとり出すところでしょうけれども、子路としては顔回などライバル視していませんので、こういう質問を繰り出したのではないでしょうか。


其の過ちを見て内に自ら訟む

 公冶長第五(93~119)

118 子曰。已矣乎。吾未見能見其過。而内自訟者也。

(訓)子曰く、已(や)んぬるかな。吾れは未だ、能く其の過ちを見て内に自ら訟(せ)むる者を見ず。

(新)子曰く、つくづくいやになったね。自分の犯した過ちに気付いて自ら咎める人が、どこにも居ないではないか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 已矣乎(已んぬるかな)の訳語には興味がありますね。

 読み下し訳文
金谷治已んぬるかなもうおしまいだなあ
宮崎市定已んぬるかなつくづくいやになったね
加地伸行已んぬるかな残念だな
宇野哲人已んぬるかなもはや絶望だ
吉川幸次郎已んぬるかなイイ、イイ、フ、という唐音で読めば、一層よくわかるように、深い嘆息の言葉

 吉川先生は翻訳してくれません。

 今風に言えば、「絶望した!」


丘の学を好むに如かざるなり。

 公冶長第五(93~119)

119 子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。

(訓)子曰く、十室の邑に、必ずや忠信の丘の如き者あらん。丘の学を好むに如かざるなり。

(新)子曰く、どんな僻地の小邑(こむら)でも、ひとりぐらいは私のような律儀者が居るものだ。しかし私のような学問好きは滅多にいないだろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 儒教の、聖賢の道というのは一つ一つは小さな実践の積み重ねであり、封建主義ですから自分の分相応の振る舞いをすることが大切なのです。

 生まれもった素性のよい人間は、そのまま育てば忠信の人になるでしょう。しかしそこからさらに進んでゆくためには、「学」がかかせないというわけです。

 朱子が曰うには、「美しい性質の人は得易いけれども、究極の道は悟り難い。学んでその極に達すれば聖人となることができる。学ばなければ凡人となることを免れない。勉め励まなければならない。」

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 つまり前にも言ったことのくり返しのようですが、「悪いことをしない」ことを「よい子である」とする風潮は、儒教的には誤りで、常に進取の道をあやまたず貫くことが大切なのでしょう。


 すなわち孔子によれば、素朴なひたむきな誠実、それだけでは完全な人間でないのである。学問をすることによって、人間ははじめて人間である。人間の任務は「仁」すなわち愛情の拡充にある。また人間はみなその可能性をもっている。しかしそれは学問の鍛錬によってこそ完成される。愛情は盲目であってはならない。人間は愛情の動物であり、その拡充が人間の使命であり、また法則であるということを、たしかに把握するためには、まず人間の事実について、多くを知らなければならない。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 吉川先生はちょっと大げさでしょうか。吉川先生は「1 学而時習之」の「学」も「「学」とは、いうまでもなく、学問の意味であるが、具体的には、教団の重要な教科書であった「詩経」と「書経」を読み、礼と楽とを勉強することであったろう。」と大真面目ですから、こうなるのかも知れませんが、朱子の「究極の道」のようですね。自分に合わせて段階的に学びつつ、というくらいでいいと思います。「詩経」と「書経」をマスターするぞ、といっても一朝一夕にはなかなか難しい。大切なのは、日々巧夫をかさねて少しづつでもよいから聖王の道に近づこうとする心意気なのではないでしょうか。それを孔子は「好学」と示したのだ、と。

 なろう、なろう、あすはなろう!

 大きな檜にあすなろう!


 以上で、学問を志す者が尊ぶ『論語』上論における「公冶長」という第五章は終わる。*1

*1:法華経の章が終わる所のパクリ